1522(大永2)年

刈谷

此国、折ふし俄に牟楯する事有りて、矢作八橋をばえ渡らず。舟にて、同国水野和泉守館、苅屋一宿。

常滑

尾張知多郡常滑、水野紀三郎宿所、一日。野間と云所、義朝の廟あり。

1524(大永4)年

亀山より駿河へ

六月七日、尾張知多郡大野の旅宿。八日に参川苅屋といふ所、水野和泉守宿所一宿。同国土羅一向堂一日逗留。十日に今橋牧野田三一宿。

1526(大永6)年

今橋

三河国今橋牧野田三、彼父、おほぢより知人にて、国のさかひわづらはしきに、人おほく物の具などして、むかへにとて、ことごと敷ぞおぼえし。此所一日。熊谷越後守来り、物語。夜ふけ侍りし。

伊奈

田三同名平三郎、猪名と云所一宿。

深溝

松平大炊助宿所連歌。

沢のうへの山たちめぐる春田かな

此所の様なるべし。

吉良東条

東条殿はじめて参ずる事也。二・三日逗留。連歌。発句は色代申て、

  ふぢ波やさかりかへらぬ春もがな

暮春のよせにや。翌日、宗長、

  波や行春のかざしのわたつ海

おなじ暮春なり。

刈谷

かりや水野和泉守宿所。

  かぜや春磯の花さくおきつなみ

守山

廿七日、尾張国守山松平与一館、千句。清須より、織田の筑前守・伊賀守・同名衆、小守護代坂井摂津守、皆はじめて人衆、興ありしなり。

  あづさ弓花にとりそへ春のかな

新地の知行、彼是祝言にや。

熱田

熱田宮社参。宮めぐり屋しづかに、松かぜ神さびて、まことに神代おぼゆる社内、この御神は東海道の鎮護の神とかや。宮の家ゝ、くぎぬきまで、潮の満干、鳴海・星崎、松の木の間このま、伊勢海見はたされ、こゝの眺望、たがことの葉もたるまじくなむ。旅宿滝の坊興行。筑前守来あわれて、

  郭公松の葉ごしか遠干潟

神官所望に、

  うす紅葉松にあつたの若葉かな

後堀河院百首やらむ、こゝもあつたのなどある様におぼゆる。老のひがおぼえにや。

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  1. 宗長手記・日記は、同時代史料ではない。宗長日記の巻末に、寛政元号あり。江戸末期に編纂されたもの。
    徳川実紀の出典一覧にその名前の記載なし。

  2. 同国土羅一向堂
    土呂の本宗寺をさすと思われるが、羅という当て字はおかしい。さらに、三州一向衆乱記では、道場であり、一向堂という表現はおかしい。
    一向一揆があったことを知っている人間の手によるもので、1524年の段階では一向一揆はない。
    また、大久保の三河物語では、一騎、とあり、一向という表現はない。

  3. 矢作八橋をばえ渡らず。舟にて、同国水野和泉守館、苅屋一宿
    矢作川から海路で刈谷という意味か?ありえない。遠回りであり、戦国時代に、海路で移動している事実はないし、八橋は内陸であり、渡る必要はない。
    このとき、水野和泉守はいない。刈谷城は、このときないし。
    水野家当主の忠政は、小川城主で、下野守である。
    水野近守は、存在が疑問視されている。

  4. 松平与一、信定のことと思われるが、
    大久保の三河物語では、松平内前と呼んでおり、松平与一はおかしい。

  5. また、刈谷古城(刈谷城の前身)が、水野和泉守の宿所という主張があるが、三河国二葉松の参州古城記には、刈谷城はあるが、刈谷古城の記載はない。刈谷城は、小川城から水野が本拠を移したとなっているが。

  6. 補足しますが、『八橋』の所在地をどこに設定するかによって迂回の度合いが異なると考えられます。私は名鉄『三河八橋駅』近辺と想定しています。この『八橋』を迂回して刈谷に抜けるルートは充分ありうるものではないでしょうか。「戦国時代に海路で移動している事実はない」との断定も奇異に思いました。何れかの研究成果を基礎におかれているのでしたら、典拠をご教示戴ければと思います。
    「八橋は内陸で渡る必要はない」と書かれておりますが、乱流域に多数の架橋がなれている意味での『八橋』であれば「渡る」という記述に矛盾はないと思われます。
    水野和泉守・刈谷城の実在に関しても断定されておりますが、こちらも典拠をお教え戴けますでしょうか。史料を見たところ、かえって小川城・水野忠政のほうが実在を確認できなかったのですが……。
    色々不勉強で恐れ入りますが、ご教導戴ければ幸甚です。

  7. 『土羅』という当て字に関しては何ともいえません。この時代の書状では正規の文書でも当て字が多数用いられていますので、発音が若干異なっているとしても不自然ではないと考えておりました。
    一向堂に関しては、時宗一向派という存在もありますので『一向』=浄土真宗本願寺派とは断定できないと思います。

  8. 同時代ではない点、説明が甘かったようで反省しております。確かに、妙法寺記も含めて同時代性が微妙な史料は何点かあります。『宗長日記』の内容妥当性は愛知県史資料編10の発刊を待ってコメントしたいと思います。

  9. 刈谷城の成立時期や城主に関しては把握しておりませんでした。『日本城郭大系』に依存しておりますので、何かご存知の点ありましたらお寄せ戴ければと思います。

  10. 松平与一が信定であるかは『寛永諸家系図伝』による推測かと思いますが、同書松平信定に関する記述には多くの隠蔽・改竄の跡が見受けられる旨、『三河松平一族』にて平野氏が推測しています。ちなみに、与一は仮名・内膳は官途名ですから両立可能です。

  11. 阿波国文庫 三河国二葉松をごらんください、
    http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/monjyo/awakokulist.php
    http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/monjyo/awadegitalhyouzi.php?p=83&sub1=%95%5C%8E%A6
    刈谷城はあるが、刈谷古城はない。
    安城の場合、安城村古城(安城古城)、安城古城(安祥城のこと)ときちんと2つ掲載されている。

  12. ご例示ありがとうございます。確かに刈谷城は単一の記述ですね。参考になりました。とはいえ、『三河国ニ葉松』も近世成立の書物のようです。宗長日記に描かれた、水野和泉守と刈谷宿所の存在を否定しきれるものではないと考えますが、いかがでしょう。水野和泉守近守については、
    http://rek.jp/index.php?UID=1199718152
    にてこのサイトで書状を紹介しております。何れにせよ、1559(永禄2)年以前の史料を紹介する愛知県史資料編10の刊行を待ちたいと思います。

  13. 刈谷新城の前身に刈谷古城があったというのは、刈谷市役所による捏造です。徳川の歴史書には、そのような記載ありません。
    三河国二葉松でも、刈谷城は、緒川城から水野が移転してきたに、なってる。
    宗長の記録は、室町時代のものではない。幕末の徳川実紀の出典一覧表にもその名前はない。親元日記などの著名な日記類は、記載あるのに。

  14. それから、宗長手記ですけど。宗長日記ではない。
    手記という用語は、幕末~明治期に使用され始めた用語では?
    抽斎の―した文に就いて〔出典: 渋江抽斎(鴎外)〕
    群書類従で初登場の書物は、幕末に編纂された可能性がある。
    あるいは、加筆修正による校正。
    万里集九の梅花無尽蔵もあやしい。
    いずれも、徳川実紀、改正三河後風土記の出典一覧表にその名前はない。

  15. コメントありがとうございます。私は宗長に関する知識は殆どありませんので、ご回答も素人の頓珍漢なものになっていると思われます。史料や文献のご提示を戴ければ助かります。
     『徳川実記』は手元になかったので『改正三河後風土記』の引用書目を確認しましたが、『為和集』・『言継卿記』もありませんでした。どちらも駿河下向時の記述があります。著名な日記では『実隆公記』『多聞院日記』もありませんでした。網羅性に疑問がありますので、宗長の記録が同時代のものではないという確証にはなりません。
     よしんば宗長の記録が後世のものだったとしても、遺構だけあって史料に出てこない城跡は日本に多数あります。そう考えると、楞厳寺の近辺、『本刈谷』という地名を考慮して城跡を特定していることは自然であり、仮説に破綻はありません。生没年が矛盾する『寛政重修家譜』の水野氏系図のほうに捏造の疑いがあるでしょう。
     『宗長日記』『三河国二葉松』『徳川実記』『改正三河後風土記』は全て近世の編になりますから、同時代史料を集めた『愛知県史 資料編10』を待ちたいと思います。如何でしょう?

  16.  確かに、ご指摘の通り引用部分は『宗長手記』になります。私の意図としては岩波文庫『宗長日記』を指しており、その点は説明が足りなかったようです。
     『宗長手記』・『宗長日記』ともに、近世の編纂時につけられたものであると、岩波文庫『宗長日記』の解説にあります。後世の者が編纂時に書名を冠するのであれば、その時代の言葉を用いるのは不自然ではないと思います。
     他記録との校合は、原文を残すならば問題はありません。複数の伝本が群書類従で一本化されたと解釈するならば、それは編纂であって改竄ではありません。『武功夜話』の史料批判で試みられたような、記述内容に関する考証があって初めて『偽書』かを問えると思います。『宗長手記・日記』と『梅花無尽蔵』の根本的な記述で、明らかに後世の著作であると指摘出来る点がありますか?

  17. 東大史料編纂所のDBでは、宗長日記の巻末に寛政元号があり、同時代史料ではない。
    東大史料編纂所のDBでは、万里集九の梅花無尽蔵は、江戸中期写本、平戸藩蔵書とあり、楽斎堂印記あり。同時代史料とはいえない。
    室町時代の日記、蜷川親元日記、実隆公記などで確認できない事実ばかり。

  18.  東大史料編纂室のDBは所蔵文書の記録ですよね。その文献自体がいつ筆写されたかしか追えないのではないでしょうか。『宗長日記』『梅花無尽蔵』がいつ成立した文献かは判断できないと思います。
     『宗長日記』については、『宗長日記』(岩波文庫)の解説にあるように、多数の伝本が存在したものを群書類従が校合して標準化しており、伝本によっては1666(寛文6)年のものも存在しております。
     『実隆公記』の原文を当たった訳ではないのですが、手元にある『三条西実隆』(吉川弘文館・人物叢書)を参照したところ、近江国で1524(大永4)年2~4月の間に宗長・宗碩と千句連歌を張行したとの記述がありました。『宗長日記』(岩波文庫)にもその出来事は書かれております。
     その他の点は調べておりませんが、『実隆公記』と『宗長日記』との間で矛盾点がありましたらご教示いただければと思います。

  19. 貴殿は、今川氏が好きなのでしょうか?
    WEBサイトその他で、今川義元を持ち上げる勢力が存在するのですが?
    朝倉宗滴話記に、国持ち人使い上手として、今川殿とあり、義元を指すとする説があるようです。
    朝倉宗滴の生きていた時代の今川氏の当主は、氏親、氏輝、義元ですが、氏親、氏輝である可能性、三者全員を総称して指している可能性、そして、宗滴話記自体偽書の可能性(宗滴の発言ではない)があるのです。
    織田上総介の台頭を予見した記事は、宗滴話記の異本の宗滴夜話、金吾利口書、には見えないんですよ。
    言葉使いのおかしさ、など後世の歴史結果を知っている人間の作為が感じられます。

  20.  私が今川氏が好きかというご質問ですが、好き・嫌いではなく興味を持っている対象ですね。今川氏を贔屓にしている訳でもありません。
     「今川義元を持ち上げる」ことと今回ご指摘戴いている「宗長日記の記述は信憑性があるか」ということのつながりが判らなかったのですが……。宗長は義元と面識があったと思われますが、日記中に記載はありません。
     また、『宗長日記』が後世の歴史結果を知っている人間の創作・加筆ではないか、という点に関しては首肯しかねます。織田弾正家と松平次郎三郎家の記述があっさりしており、同名諸家と同列に扱っているためです。後世を知っていれば、織田信秀・松平清康・今川義元の記述を入れるのではありませんか? 特に、家康の祖父とされる清康は1523(大永3)年の家督継承後、すぐさま紛争に突入したと言われています。その前年にも西三河で戦闘があったようですが、宗長は「折ふし俄に牟楯する事有て」船で迂回したとだけ記しています。後世将軍家を輩出する松平家ではありますが、この当時は西三河の一国人に過ぎず、その内紛を詳細に記述しようとは思わなかったのではないでしょうか。その少し前までは朝比奈氏の戦功を唐突、かつ熱心に記述していますが、これは宗長も体験した紛争だったからでしょう。
     言葉遣いのおかしさに関しては、私の不勉強からご指摘の箇所が判りませんでした。改めてご教示いただければと思います。
     朝倉宗滴の記録は調べておりませんので何とも言えません。近世に現われた諸本には様々なバリエーションが存在するようですし、中には創作されたものもあるでしょう。ただ、偽書とされた記録にも底本が存在する可能性があり、底本を忠実に引き写した部分があればそれは参考になるものです。
     記述内容に明らかな矛盾があれば、その記録自体を疑う必要があると思います。それでも、一つ一つ検証しなければならないでしょう。具体的な内容がなければ検証にはならないと考えますが、いかがでしょうか。