a桶狭間再考

検証a21:小豆坂合戦の趨勢

 小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日に行なわれたことが確認できるが、松井惣左衛門宛の義元感状を見ると 「於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条」 (西三河小豆坂において尾張方と戦闘し、前線に馬 検証a21:小豆坂合戦の趨勢

検証a20:丹羽氏の帰属

 アップした関連古文書に丹羽氏は3名登場する。 01)1525(大永5)年 水野氏被官の丹羽五郎左衛門(楞厳寺寄進状) 02)1550(天文19)年 今川氏被官の丹羽隼人佐(今川義元判物) 03)1553(天文22)年  検証a20:丹羽氏の帰属

検証a18:刈谷赦免について

刈谷城を今川義元が『赦免』した件について、『赦免』とはどのような状況を指すのか、収集した書状を元に考察を行なってみる。 今川氏文書で該当するものは以下の通り。 01 今川義元、足立右馬助が岡崎赦免に奔走した功績を褒める 検証a18:刈谷赦免について

検証a16:北条綱成の所在地

 1561(永禄4)年3月に、後北条氏は越後方を主力とする軍勢の攻撃によって本拠地小田原を攻囲されるという危機に見舞われた。後に、北条氏康は「左衛門大夫が不在で兵が集まらなかった」とコメントしている(北条氏康書状がポイン 検証a16:北条綱成の所在地

検証a14:織備懇望の内容

 今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したの 検証a14:織備懇望の内容