検証a22:北方戦線(奥三河)を中心とした時系列
1553(天文22)年 3月21日 今川義元は奥平定勝の諸権益を安堵する 9月4日 菅沼伊賀が返り忠したと今川義元に賞される 今川義元は北三河の奥平定勝の諸権益を安堵している。これは奥三河から反今川勢力を一掃する方針だっ …
1553(天文22)年 3月21日 今川義元は奥平定勝の諸権益を安堵する 9月4日 菅沼伊賀が返り忠したと今川義元に賞される 今川義元は北三河の奥平定勝の諸権益を安堵している。これは奥三河から反今川勢力を一掃する方針だっ …
より大きな地図で 小豆坂合戦関連図 を表示 拠点凡例: 紫=人質や年貢の集積を行なう政庁機能もある拠点 青=複数の文書に登場する地域的な拠点 水色=単一の文書に登場し「取立」の語を伴う臨時拠点 岡崎 今川・織田のどちらか …
小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日に行なわれたことが確認できるが、松井惣左衛門宛の義元感状を見ると 「於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条」 (西三河小豆坂において尾張方と戦闘し、前線に馬 …
アップした関連古文書に丹羽氏は3名登場する。 01)1525(大永5)年 水野氏被官の丹羽五郎左衛門(楞厳寺寄進状) 02)1550(天文19)年 今川氏被官の丹羽隼人佐(今川義元判物) 03)1553(天文22)年 …
6月8日の今川氏真判物によると、岡部元信の率いる部隊は鳴海城を撤収し、その後刈谷城を攻撃して水野藤九郎を討ち取ったという。 1560年6月8日氏真判物 ところが、氏真が同年9月1日に出した判物では刈谷攻落は記載されて …
刈谷城を今川義元が『赦免』した件について、『赦免』とはどのような状況を指すのか、収集した書状を元に考察を行なってみる。 今川氏文書で該当するものは以下の通り。 01 今川義元、足立右馬助が岡崎赦免に奔走した功績を褒める …
GoogleMapを利用した、桶狭間関連文書で記述された地点の一覧をページとして追加した。コメント付けが一部のみとなっており未完成であるものの、以後の参考となるよう掲示し、適宜コメントを追加する。 このマップで判明し …
1561(永禄4)年3月に、後北条氏は越後方を主力とする軍勢の攻撃によって本拠地小田原を攻囲されるという危機に見舞われた。後に、北条氏康は「左衛門大夫が不在で兵が集まらなかった」とコメントしている(北条氏康書状がポイン …
『日本城郭大系』には、知多半島西岸にも「苅屋城」が記載されている。 苅屋城 常滑市苅屋字城下 衣浦湾に臨み、鵜飼福元の居城と伝えられる。 という記述であるが、臨んでいるのは衣浦ではなく伊勢湾となっている。常滑市苅屋 …
今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したの …