小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日に行なわれたことが確認できるが、松井惣左衛門宛の義元感状を見ると
「於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条」
(西三河小豆坂において尾張方と戦闘し、前線に馬を入れて尽力した。松井宗信も同じく殿軍を行なったので)
とあり、殿軍(しんがり)を松井隊が行なって活躍した様子が書かれている。後年の松井八郎宛氏真判物でも小豆坂の時の様子を
「松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事」
(松平蔵人と織田備後守が同盟を結び、大平と作岡、和田の3城に集結した際も、医王山城で堅固に籠城し、その後の小豆坂で駿河・遠江・三河の軍勢が戦闘を展開し退却した際、敵が追いすがってきたところを、宗信が追い返したことは比類ない出来事である)
としており、壊走ではないものの、今川方が退却している様子が描かれている。
この合戦の直前、3月11日付けの下書きが残る氏康書状には、今橋(吉田)まで影響を及ぼしている織田信秀の様子が描かれる。
「去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候」
(三河国のことですが、駿河国に相談もなく、去年あの国に向けて軍を進め、安城城をすぐに陥落させたとのこと。いつものご戦功、素晴らしいことです。ことに岡崎城をその国より押さえていることで、駿河国にも今橋で本意を遂げられ、それ以後、その国では万事の支配が相違してしまったのでしょうか。このことで、あの国は詰められたと承りました。無理もないことです)
ところが、その後は今川氏の西進が始まる。幡鎌平四郎宛て義元感状によると、翌天文18年9月18日には、今川方が吉良・安城・桜井を制圧している様子が書き出されている。また、前掲の検証a20から、1550(天文19)年6月には今川氏が尾張東部岩崎城の獲得を目指している様子が判る(天文22年までには岩崎を制圧している)。
この攻守逆転を小豆坂合戦に求める巷説が多いが、1次史料を読み直すとこの合戦で今川方が劇的に勝利したことはなかったと見てよい。
天文17年12月~天文18年9月までの10ヶ月の間に、織田方・今川方で攻守逆転する事情があったものと思われる。
氏康書状の「駿州にも」の「にも」は、信秀が安城を抑えた事に対して、一方の「義元の方でも」今橋を手に入れて目的を達したという意味ではないのですか????[いやー/]つまり、信秀は今橋などには進出できていないと思うのですが。
[いやー/]「松平蔵人・織田備後令同意」は松井宗信がこの二人に「同意」令しめて、大平・作岡・和田を強制的に取り上げたのが「取立」でしょう。[涙/]一次資料も結構ですが、史実を曲げないでくださいね。[パンダ/]
コメントありがとうございます。確かに「駿州ニも今橋被致本意候」は解釈が難しい一文だと思います。以下私の考えを書いてみます。
北条氏康書状は、織田信秀の東進を褒めています。また、「恐々謹言」で結んでいますし、敬語も用いています。となると、「駿州ニも今橋被致本意候」の「被」は敬語であり主語は信秀と解釈できます。
受動の「被」でも通りますが、「駿州」に相談もなく三河に出兵したと冒頭にあるように、三河への出兵が本来は「駿州」に相談して行なうべきものだったとの前提があるようです。であれば、三河(安城・岡崎)は織田氏・今川氏が相談しながら干渉していた共同統治領域となるでしょう。安城をすぐに落としたという記述から考えても、不意打ちの可能性が高いと考えています。
この後の文章でもう一度「駿州」が出てきて、「今橋で本意を遂げた、その国は万事支配がうまくいかなくなった。あの国に詰め(在陣)ている」と書かれています。あの国が三河を指すのは問題ないと思いますが、その国をどう考えるかがポイントになります。書状をやり取りしている相模・尾張は含まれませんから、「駿州」しか関係国は残されておりません。
とすると、「駿州」が今橋で本意を遂げたと解釈するならば、今橋を手に入れたにも関わらず「その国は万事支配がうまくいかなくなった」となるのは不自然です。また、それまでは信秀の快進撃を称えている内容ですから、逆説の文が入るのであれば「駿州ニも今橋被致本意候」の前に「雖然」が入るものと思われます。
氏康が「駿州ニも」とわざわざ入れたのは、今川・織田両氏が共同介入していた三河ではなく、今川氏の領域である今橋まで影響を及ぼして本意を遂げたことを褒めたかったからだと考えております。
ちなみに、今橋(吉田)・田原も三河ですから「あの国」の一部なのですが、共同統治領域(西三河)ではなく今川氏支配領域(東三河)で、このため信秀が「駿州」=今川氏領域にも進出したことを氏康は強調したかったのではないでしょうか。
こちらのコメントもありがとうございます。
豊明市史の釈文では「松平蔵人・織田備後令同意」とありますが、中黒(・)は後世足したものなので、「松平蔵人、織田備後令同意」が正しいのではないかと推測しています。中黒によって松平蔵人と織田備後を併記と解釈するならば、ご説のように松井宗信がこの2人を同意させたことになりますが、この場合は織田備後が今川方に与したこととなってしまいます。そうなると、大平・作岡・和田の3城や医王山が出てくる意味が不明となり、「於西三河 小豆坂尾州馳合」と書かれた松井惣左衛門宛義元感状が矛盾してしまいます。仮に小豆坂合戦が2度あったとしても、織田備後が今川方になったこの小豆坂合戦では、今川方はどの勢力と戦ったのでしょうか。
「取立」については、城や砦といった防御施設の後につけられる場合、「防御施設として整備する」という意味合いが多いように思います。「強制的に取り上げた」という使い方は把握できておりませんが、類例ご存知でしたらご教示下さい。
文書を自然に読むなら、「松平蔵人が織田備後に同意して大平・作岡・和田の3城を構築したことについて、医王山城を堅固に守備し、その後小豆坂において……」となるのではないでしょうか。これなら地理的にもすっきりします。
いかがでしょうか。
諸々説明不足の点が多いので、ご不明点ありましたらまたご意見下さい。
ご無沙汰しており増す。古いエントリーにレスをつけさせていただきます。
氏康文書については、私自身深い関心を寄せております。高村様の①信秀と義元の三河共同統治をしていた。②天文十七年時点で岡崎は信秀の手に落ちていたという解釈はとても興味深く読ませていただきました。但し、古文書は助詞が不明確であるが故に、字面しかみなければ、多様な解釈が可能です。よって、文脈から5W1Hを規定するために他の歴史事実によらざるをえないと思います。
私が氏康文書に関心を寄せるのは、安城陥落が天文十六年であったとすれば、『東国紀行』において天文十三年に宗牧が岡崎に立ち寄った際に、阿部定吉が『おはりおもて』に出陣可能だった理由が説明できるからです。この時点で安城が織田方の手に落ちていたとすれば、岡崎から尾張に向かうルートの想定が難しくなりますので。
氏康文書から三河共同統治、岡崎陥落が読み取れるとすれば、それを担保するいかなる歴史的事実が存在するのか、そのあたりの部分について研究がすすむことを期待します。
小豆坂合戦において今川軍の殿軍が活躍せねばならない局面があったという部分は勉強になりました。今川軍は祖父の義忠の代においても、総大将が戦死しておりますね。義忠が戦死した小笠の合戦も、小豆坂も、桶狭間合戦も今川軍がそこを決戦地として選んだものではなく、行軍の中途で合戦が始まったといわれています。ひょっとすると今川家の行軍中の軍法そのものに何らかの欠陥があったのかもしれませんね。[てへっ/]
コメントありがとうございます。岡崎の帰属に関してまとめたエントリーを登録しましたが、今川方かどうかは不安定だったようです。1548(天文17)年以前のものは史料を探し切れていませんので、後日を期したいと思います。共同統治の件は、『安心軒』の素性を検証する際に改めて考察してみます。またその際にご意見などいただけますと助かります。
安城の帰属ですが、1544(天文13)年に安城の与三郎ひろ定が深溝松平氏に年貢納入を約束していますので、安城が松平方であったのは間違いないと思います。宗牧の紀行文、美濃での敗戦を語る信秀はどこかのんびりしていて、宗牧とすれ違うようにして尾張に攻め込んで行った三河方との緊張の落差に違和感を感じました。何か要因があるのかと勘案中です。
今川義忠が討ち死にした遠州合戦は、通説と違って強引で困難な出兵だったと家永遵嗣氏の論文で読みました。私も当初は今川氏は当主を討ち死にさせる構造を持っているのかと疑問に思っていましたが、竜造寺隆信・上杉顕定・上杉定正・宇都宮俊綱・武田元繁など、大名クラスが戦場で死ぬのは珍しくないようです。大内義興・武田晴信・吉川元春・堀秀政のように陣中で病死した例も入れると、戦場に出ると大名でも命の危険は高くなるようですね。
まだまだ不勉強ながら精進して検証を進めていこうと思います。これからもお気づきの点がありましたらご指摘下さい[にこっ/]