1561(永禄4)年3月に、後北条氏は越後方を主力とする軍勢の攻撃によって本拠地小田原を攻囲されるという危機に見舞われた。後に、北条氏康は「左衛門大夫が不在で兵が集まらなかった」とコメントしている(北条氏康書状)。後北条氏でこの官途名を使っているのは玉縄北条氏であり、この当時は北条綱成が当主だった。
綱成は白川氏との取次を務めている。この時白川氏は佐竹氏と交戦中で、北条氏康は足利義氏を担いでその調停を試みている。そこで、綱成が白川氏の援軍として陸奥国白川近辺に出動していたと仮定してみよう。その場合、11月16日の北条氏康書状がポイントとなる。この書状で氏康は、取り乱してはいるものの防備に問題はないと言明している。年明けから後北条氏は危機感を持ち始めるが、この段階ではまだ強がりを言う余裕はあった。そしてそれに先立つ9月19日、北条氏康は佐竹氏に戦況を訊いている(北条氏康書状)。この書状からすると北条氏康は完全に中立の立場となり、関東公方である足利義氏の意向をメインに出している。今川義元が武田氏に援軍を送りつつ、武田・上杉両氏の和平を仲介した事例もあるので微妙ではあるが、佐竹氏にとっては敵方である白川氏に綱成が援軍として加わっているという情報は引き出せない。援軍を出していながら「そちらの戦況が判らず心もとない」というコメントを送りつけるのは、和平の仲介者としては白々し過ぎるように思える。どちらかというと、万一に備えて綱成は関宿城に詰めていたという解釈の方が自然である。
ところが、綱成が関宿にいたのだとすると、「遠境に行って左衛門大夫がいなかった」という氏康記述は矛盾する。関宿からならいつでも戦線に加われるためだ。
その他で何が起きていたか。今川氏は8月から三河国衣領で合戦を行なっている。この係争に破れて12月11日より前には撤退し、衣領所有者に領地振り替えを行なっている(今川氏真書状)。もし綱成がこの時に援軍として出撃していたとすると、今川氏が積極的に後北条氏に援軍を出していた点に納得が行く。綱成を三河国に貼り付けたままにしておく代わりに、小倉内蔵介を中心とする旗本精鋭部隊を川越城に駐屯させたのだろう。
また、綱成の娘は北条氏規に嫁いでいる。氏規は今川氏に引き取られて育った経緯があり、仮名も『助五郎』という今川系のものになっている。本来であれば氏規が中心になるべきだが、彼はまだ若いので舅の綱成が赴いたと考えられる。
さらに論を進めるなら、1560(永禄3)年5月の出征に後北条氏から援軍が出ていた可能性も充分に存在する。水軍を使って海路派遣されたのであれば、当時浦賀城に詰めていた綱成が援軍であったと考えられる。1561(永禄4)年の危機が去ってすぐに、氏康は水野信元に「松平の裏切りは嘆かわしいことである。自分自身が出陣しようか」と表明している(北条氏康書状)が、そのコメントは少し唐突であった。しかし、永禄3~4年で既に綱成が三河出征しているのであれば、氏康自身の出馬も俄然現実味を帯びた恫喝となる。
この可能性を詰めるためには、永禄3~4年の今川・後北条の動きを調べ、北条綱成の関東不在がいつからいつまでだったのかを検証する必要があるだろう。この点は今後の課題として後述する。