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検証a20:丹羽氏の帰属

 アップした関連古文書に丹羽氏は3名登場する。
01)1525(大永5)年 水野氏被官の丹羽五郎左衛門(楞厳寺寄進状)
02)1550(天文19)年 今川氏被官の丹羽隼人佐(今川義元判物)
03)1553(天文22)年 今川方福島氏与力と思われる丹羽右近(参詣道中日記)
 丹羽隼人佐は1550(天文19)年6月から福谷城を守備した功績によって旧来の領地であった、沓掛・高大根・部田村を同年12月1日に返還される。これらの土地は丹羽隼人佐が近藤右京亮に売却したものだった。また、横根・大脇を安堵されているので、この地域は辛うじて保っていたようだ。
 この丹羽隼人佐が、水野氏被官の五郎左衛門系統なのか、藤島に在城した右近系統なのか、または独立した系統なのか判断に迷っていた。
 そこで、隼人佐が守備したという福谷城の場所に着目してみた。1553(天文22)年時点で、今川氏は尾張東部の岩崎城を確保している。この岩崎城から最短距離で三河国に抜けるルートを守備する位置に、福谷城は存在している。隼人佐宛て判物で義元が「今度一変之上者」と語っているように、6月から福谷城に駐屯していた背景には、岩崎城に今川氏が進出する契機があったのだろう。
 1550(天文19)年9月17日には、今川義元は雲興寺禁制を発行しており、この時期に今川方は猿投神社の北方まで力を及ぼしていたようである。「今度一変」は6月に作戦が始まり、9月に戦闘が行なわれ、12月に事後処理が行なわれたと判断してよいだろう。
 隼人佐から沓掛一帯の土地を購入していた近藤右京亮は、義元判物に「近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方」とあるように、この事変に対して反今川方の立場にいたようだ。ちなみに、近藤は1559(永禄2)年12月17日の土地売券に登場する。この時彼は清洲近郊の枇杷島を売っているので、元々尾張の人だと思われる。
 上記より、隼人佐は岩崎・藤島の右近系統だと推測する。近隣地沓掛の旧主であったとはいえ、作戦枢要の地である福谷城に外様の隼人佐が置かれたことから、隼人佐が右近と同じ系統で取り次ぎ役として有用であったためだと考えている。
 蛇足だが、1550(天文19)年の事変による今川方東進は不安定だったようで、その3年後に記された参詣道中記で大村家盛は、3月22日に美濃から尾張、三河と抜けた際は岩崎と藤島を抜けているが、その1ヵ月後の4月26日、今度は三河から美濃に向かおうとした際、岡崎で進路変更を余儀なくされている(山中よりおかさきへこし、まヘハふし島へとおり候へ共、三河・岡崎取相にて)。
 参考に、関連図を掲出しておく。

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コメント 1

  • […]  ところが、その後は今川氏の西進が始まる。幡鎌平四郎宛て義元感状によると、翌天文18年9月18日には、今川方が吉良・安城・桜井を制圧している様子が書き出されている。また、前掲の検証a20から、1550(天文19)年6月には今川氏が尾張東部岩崎城の獲得を目指している様子が判る(天文22年までには岩崎を制圧している)。  この攻守逆転を小豆坂合戦に求める巷説が多いが、1次史料を読み直すとこの合戦で今川方が劇的に勝利したことはなかったと見てよい。  天文17年12月~天文18年9月までの10ヶ月の間に、織田方・今川方で攻守逆転する事情があったものと思われる。 […]

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