北条氏規、山本太郎左衛門尉が佐貫沖で活躍したことを賞す
今度於佐貫前、敵船ニ懸合、陸地へ押上、早船三艘切取、殊数ケ所、致鎗手、自身愛河[を]被討捕ノ事、誠ニ無比類候、仍太刀一腰[未紀]遺之候、弥可抽忠節之状、如件、 天正五年[丑] 十二月二日 氏規在判 山本太郎左衛門尉殿 → …
今度於佐貫前、敵船ニ懸合、陸地へ押上、早船三艘切取、殊数ケ所、致鎗手、自身愛河[を]被討捕ノ事、誠ニ無比類候、仍太刀一腰[未紀]遺之候、弥可抽忠節之状、如件、 天正五年[丑] 十二月二日 氏規在判 山本太郎左衛門尉殿 → …
一、対当方へ罪科人、越国没落之上、何分ニも当方之策媒ニ有之儀候、如下知被申付尤候、一、大石甚之事、不心得由先段申候、何分ニも越国之者、大途之扶助人者、大途之下知次第候処、其方自分之様ニ取成、我ゝ状をも不為渡、我侭ニ被成様 …
今度当表隙入ニ付而、榎本ニ以三百之人数在陣可走廻由、対陸奥守証文披見候、肝要至極候、先書当表参陣与申遣ハ、小官之申合不知以前ニ候、於何口之走廻も同前候、殊佐竹定而可出張間、城主近藤与相談、堅固之防戦専一候、恐ゝ謹言、 九 …
(切紙)書出 右、佐竹衆寄来之由、注進候、覚悟之前ニ候間、抽而軽身命就走廻者、望之知行、可遣之候、下妻衆可為先勢候之条、彼衆討捕候者、当日之可為本意、各存其旨、尽粉骨可走廻者也、仍如件、 天正五年丁丑 九月十五日 氏繁( …
爰元在城七月迄申付候処、無相違御請申、於自今可引立候、鉢形知行親出置候、知行役等、当月廿五日より可申付候間、早ゝ在所へ人被越可申付者也、仍如件、 卯[「翕邦把福」朱印]四月五日 →戦国遺文 後北条氏編 2063「北条氏邦 …
一宮正木藤太郎逼迫候間、合力候、今廿三日より四・五・六、四日之間ニ、兵粮支度出来次第、百四十俵一宮へ遣、正木代自旗本之検使両人之請取状を、可被取候、仍如件、 追而彼兵粮、用ニ立様ニ可被申付候、 八月廿三日[虎印] 左衛門 …
鎌倉御領之内、経師谷尊養院屋敷分之事、四貫百二文、彼寺其方実子相拘ニ付而渡置、彼替従其方手前可出由御心得被成候、自今以後、尊養院へ年貢不可有催足候、以此印判、代官へ可及断、然者、彼替四貫百二文、岩本一騎合、於小田原給置間 …
一、先河越・松山之立馬候、別ニ仕置とても有間敷候、沼田普請人数可遣、又厩橋此一二ケ城可申付、其外東表似合ゝゝ普請仕置等可申付候、此外指当用無之間、軈而可明隙候事、 一、豆州にて雑説申廻儀、竪可被申付、当時努自甲抜手致得間 …
長尾・成田・深谷各返答披見、何も下知之筋目相済間、尤候、 一、由良善筋へ及行、百余人討捕由、物始之仕合、誠肝要至極、心地好候、 一、満水推量候、曲時分之連雨、無是非候、乍去今日晴候間、此侭可属晴候歟、普請之儀、雖不及申候 …
急度申達候、然者氏政為麦秋之動出馬候、御一勢可被立進候、自拙者相心得可申達之由、内義被申越之間、以使申届候、御人衆有御遅ゝ者、無其曲候条、来五日其地を被打立候様、堅可被仰付事、専肝候、委曲口上ニ申含候、恐ゝ謹言、 陸奥守 …