徳川家康、松平左近に敵が信濃国方面に現われたことを告げ武節への移動を指示
敵信州表江就罷出候、自岩村被申越候、武節へ乍御大儀早ゝ可被相移候、不可有油断候、仍而如件、 十一月六日 家康 松平左近殿 1572(元亀3)年に比定。 →岐阜県史「徳川家康書状写」(武家事紀) 敵が信濃国方面に現われた …
敵信州表江就罷出候、自岩村被申越候、武節へ乍御大儀早ゝ可被相移候、不可有油断候、仍而如件、 十一月六日 家康 松平左近殿 1572(元亀3)年に比定。 →岐阜県史「徳川家康書状写」(武家事紀) 敵が信濃国方面に現われた …
去十月三日東根小屋へ夜討有之時分、其方出合、取首二ツ、馬廻衆夜討者四人生捕被指置候、手柄之段不申及、誠神妙ニ存候、無油断弥ゝ用心可被致候、為以来一筆如此ニ候、仍如件、 辰ノ朱印在 氏政判 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北条 …
崛懸之其方足軽共、拾人之内八人缺落候、為如何一跡をも不尋、無披露、油断ニ候、彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候、畢竟其方越度ニ候、早ゝ模様共有糾明、可承候、以上、 朱印在 四月九日 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北 …
一、昨日十一従兵被 仰付候東根小屋之者共、致一同岡谷隼人如下知、一備ニ有之可走廻、すこしなりとも岡谷はやと下知そむくニ付而者、くセことたるへく候、岡谷無用と申ニ付而者、取くひなりとも打捨、備まかりあるへき事、 一、かまり …
先度以後可申通覚悟処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期無其儀候、其御理瓦礫軒安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次々■朝倉太郎左衛門、尾川州織田衆、上下具足二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此方雖無人候罷出、及一戦織 …
今日辰刻、於土居口合戦被討捕山田惣三郎、粉骨無比類候、連ゝ不可有疎意候、恐々謹言、 四月廿日 范可(花押) 桑原甚三殿 進之候、 →岐阜県史「斎藤義龍書状」(桑原文書) 1556(弘治2)年に比定。 今日午前9時頃、 …
其後絶音問候、本意外候、、仍先月濃州相働、井口近所取出城所ゝ申付候、然者、犬山令落居候、其刻金山落居候、其外数ヶ所降参候条、令宥免候、其上勢州辺迄、如形申付候、以直書申候条、不能具候、恐々謹言、 九月九日 信長 直江大和 …
就在陣之儀、御尋快然候、殊枝柿五十・抹茶拝受、御懇情之至候、猶武井可申候、恐惶敬白、 五月廿一日 斎藤左近大夫 道三(花押) 拝進汾陽寺 尊答 →岐阜県史「斎藤道三書状」(汾陽寺文書) 在陣のことについてお尋ね戴 …
禁制 平野之内 神戸市場 一甲乙人等濫妨狼藉之事 一陣取・放火之事 一伐採竹木之事 右条々、於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、 永禄四年六月 日 (織田信長花押) →岐阜県史「織田信長禁制」(高橋宗太郎氏 …
美濃守殿御儀、不慮之仕合、無是非儀ニ候、御身上之儀、相違有間敷候由、道三申候、委細可被任稲葉伊予守差図者也、備後守病中故、我等方より如此ニ候、恐惶謹言、 十一月五日 織田與十郎 寛近(花押影) 土岐小次郎殿 →岐阜県史「 …