論点

ここでの仮説は、史料検討を経ていない。ひとまず記録として残しておく。後北条氏五代の中で生母が判らないのは伊勢宗瑞と北条氏康のみである。後北条前史に埋もれていた伊勢宗瑞の正体は、近年の研究で徐々に明らかになりつつあるが、同氏全盛期の氏康生母が判らないのは異常ではあるまいか。氏綱が伊勢から北条に改姓した契機として氏康の存在があったと推測してみよう。

北条改姓から見た氏康の存在

伊勢氏綱が、北条と姓を変えたのが、氏康7歳の1522(大永2)年。七五三の風習のように、7歳を過ぎると神の領域から人間の領域に降りてくるという感覚が中世・近世にはあった。これは嬰児死亡率が高かったため。そうなると、氏康が成人する目処が立った段階で北条と名乗ったことになる。
氏康は、伊勢姓の氏綱を父に持ちながら、北条姓の母を持っていたのではないか。そして、氏康の母は1528(享禄元)年7月には既に亡くなっていたことが、氏綱文書から判明している。氏康以降に子をなす余力がなかった可能性も高く、氏康が成人しないならば改姓根拠を失う。このために、氏綱は氏康が7歳になるのを待って改姓したのではないか。
これで、俗説にある「氏綱が北条にゆかりの妻を得て北条に改姓した」という証言に裏が取れる。では「北条にゆかりの妻」は誰か?
勝山記で「北条君」と呼ばれている人物がいる。足利茶々丸である。彼は堀越公方だった足利政知の息子だ。
そして彼には妹がいた。それらしき女性が三条西実隆の日記(明応7年1月)から伺える。文中の東隣は正親町三条実望。

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

この文面からだと、当時将軍だった足利義澄の妹と記されているだけだが、義澄も政知の息子であって、茶々丸とは兄弟である(同母かは不明)。
ということは、この姫君は義澄・茶々丸双方の妹となるだろう。その後、この姫君の消息は途絶えている。

政知・義澄・氏綱・氏康の年齡

 名前   生年   没年   堀越御所陥落   姫の上洛   氏康誕生 
 足利政知  1435(永享7)  1491(延徳3)  没後1年  没後6年  没後23年
 足利義澄  1480(文明12)  1511(永正8)  13歳  20歳  没後4年
 伊勢氏綱  1486(文明18)  1549(天文18)  7歳  12歳  28歳
 鎌倉姫君  1481-1492?  ?  0-12歳?  5-17歳?  21-33歳?
 養珠院殿  ?  1527(大永7)  ?  ?  死去12年前
 北条氏康  1515(永正12)  1571(元亀2)  誕生前22年  誕生前17年  0歳

※義澄の将軍在職は1494(明応3)-1508(永正5)年。

補足

堀越御所陥落後も北条の君(茶々丸)は生き延びている。伊豆南端から島嶼に渡り江戸湾から武蔵入り、甲斐に移って富士山麓にいたらしい。
後北条氏は、『北条』を名乗った割には、伊豆北条氏の遺蹟を尊重していない。菩提寺の成就院を守っていたのは、堀越公方を名乗った足利氏だった形跡あり。

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