調査立脚点
家康の祖父清康と父広忠は、ともに家臣に暗殺され、その暗殺者を同じ人物(植村新六郎)がその場で斬り殺している。推理小説的に、これはなにか裏がありそう。しかも、清康を暗殺した阿部弥七郎の父親である阿部大蔵は、その後も何事もなく松平家に仕えている。というか、広忠が大叔父信定に狙われると亡命させるほどの忠勤ぶりだ。何かがおかしい。
通説では、清康・広忠が斬られた刀が村正だったとしてその偶然性を強調している。が、強調すべきは上記の暗合性だろう。徳川史観は何かを隠そうとしたのではないだろうか。
年齢上の疑惑
松平氏が家康に至るまでの生没年をまとめてみた。
名前 | 生没年 | 嫡子出生時年齢 | 享年 |
親忠 | 1438-1501 | 17? | 63 |
長忠 | 1455?-1544 | 35? | 89? |
信忠 | 1490-1531 | 21 | 41 |
清康 | 1511-1535 | 15 | 24(暗殺) |
広忠 | 1526-1549 | 16 | 23(暗殺) |
家康 | 1542-1616 | 17 | 76 |
表を見て、清康・広忠特有の点に気づく。それぞれ嫡子出生時年齢が若い。どちらも24歳・23歳で暗殺されているので、駆け足になっている。戦国時代は産むのも早いのかというと、案外そうでもない。他家を参照すると、大体20代以降だ。
信忠生年1490(延徳2)年、その孫の広忠享年1549(天文18)年。3代目が死ぬまでの間が59年しかない。よく言われる『人間50年』に照らし合わせてみても、これは異常ではあるまいか。
他家をチェック
まずは今川氏。この一族は基本的に晩婚だ。但し、義元は氏輝の弟で氏輝は嗣子なく若死にしている。
名前 | 生没年 | 嫡子出生時年齢 | 享年 |
範政 | 1364-1433 | 44 | 69 |
範忠 | 1408-1461? | 28 | 53 |
義忠 | 1436-1478 | 37 | 42(戦死) |
氏親 | 1473-1526 | 40 | 53 |
氏輝 | 1513-1536 | - | 23(暗殺?) |
義元 | 1519-60 | 19 | 41(戦死) |
氏真 | 1538-1614 | 32 | 76 |
後北条氏。初代宗瑞に関しては最近の説を採用している。
名前 | 生没年 | 嫡子出生時年齢 | 享年 |
宗瑞 | 1455-1519 | 32 | 64 |
氏綱 | 1487-1541 | 28 | 54 |
氏康 | 1515-1571 | 18 | 56 |
氏政 | 1538-1590 | 24 | 52(自刃) |
氏直 | 1562-1591 | 25? | 30 |
最後に甲斐武田氏。信縄は父信昌と相続を争っている。生年が追いきれなかったので彼のデータは不確定だ。晴信(信玄)は13歳で扇谷上杉氏の娘を懐妊させたが、母体が幼く妻子ともに死んでいる。義信は父晴信と相続を争い自刃。
名前 | 生没年 | 嫡子出生時年齢 | 享年 |
信昌 | 1447-1505 | ? | 58 |
信縄 | ?-1507 | ? | ? |
信虎 | 1494-1574 | 25 | 80 |
晴信 | 1521-1573 | 17 | 52 |
義信 | 1538-1567 | - | 29(自刃) |
名乗りの疑惑
松平家の名乗りとしては『〜忠』が一般的であるのに対して、清康はイレギュラーだ。家康の存在が大きいために気づきにくいが、家康は清康と生没年がかぶらない。また、良質の史料には清孝という名乗りしか残されていない。
仮説1
清康と広忠は同一人物だったのではないか?
何故一人の人物を分けたのか……。徳川家康の父として、清康(広忠)に相応しくない事情があったため、御用学者が総出で隠蔽工作に乗り出したのではないか。理由として想定できるのは、
長忠が嫡男信忠の正室を寝取り信定を産ませた? 長忠は信忠よりも信定を可愛がったという伝承あり。
変節に伴う変名があり、信忠→清孝→清康→広忠、と改名していった。ただしその変節が宇喜田直家や毛利元就ばりにえげつなかった。
殺され方があまりにもへぼかった。
というもの。最後の案は、清康と広忠ともに同じ殺され方をしている点に着目している。
解ける謎
仮説1を考えると破綻がなくなる点とし以下の3点を挙げる。
信定が安城松平家を乗っ取る際に9歳の幼君広忠を配流して幽閉したこと。
篠島脱出後、広忠の政治交渉が巧みであり、信定配下の切り崩しも巧妙。
今川氏輝兄弟暗殺と篠島脱出が絡むとするなら、広忠は壮年なほうが納得がいく。
データ検証
ということで仮説1を更に検証。清康と広忠は同一人物として人物Xを想定。
名前 | 生没年 | 嫡子出生時年齢 | 享年● |
親忠 | 1438-1501 | 17? | 63 |
長忠 | 1455?-1544 | 35? | 89? |
信忠 | 1490-1531 | 21 | 41 |
X | 1511-1549 | 31 | 38(暗殺) |
家康 | 1542-1616 | 17 | 76 |
このXは、動乱の果てに殺されている。広忠が幼年で篠島に幽閉されたとする逸話を考えると、それまでは政権が不安定だったのだろう。そして、篠島からの復帰後ようやく嫡男家康を儲けることができたと。
仮説2
清康・広忠どころか、信忠も同一人物だったと推定してみる。そうすれば、以下の点が解消できる。
清康が13歳で家督を継ぐと同時に岡崎城を攻撃し成功していること。Yだとすれば34歳のこととなる。
名前 | 生没年 | 嫡子出生時年齢 | 享年 |
親忠 | 1438-1501 | 17? | 63 |
長忠 | 1455?-1544 | 35? | 89? |
Y | 1490-1549 | 52 | 59(暗殺) |
家康 | 1542-1616 | 17 | 76 |
この仮説の検討には、かなりの困難が予想される。ただでさえ史料の量が少ない戦国前期、しかも近世徳川氏政権時代のフィルタがかかっているという状況である。まずは関連史料の積み上げを行ってみる。
影武者徳川家康と欠史八代ですか?
徳川の公文書の記述を疑いだしたら、キリがありません。
なにせ、戦国時代初期は資料が少ない。
家康の前半世、駿河の人質時代、何をやっていたのか、わからない。
コメントありがとうございます。すみません、『影武者徳川家康と欠史八代』というご指摘が判りませんでした。村岡素一郎氏の『史疑徳川家康』のことを指すのでしょうか。ご教示いただければ幸いです。
おっしゃるように、近世期だと、徳川家康の出自にまつわる部分は記述に疑わしい点が多々あります。都合よく足されたり消されたりした部分もあると思います。その歪みを探りつつ、少しでも現実的な説を提議できればと願っています。
また、同じくご指摘の通り、徳川家康がはっきりと史料に登場する1560(永禄3)年より前、彼が何をしていたのかも現時点で私は把握できていません。『竹千世』との関係、元康として元服するまでどこにいたのか……最近では吉田という説も出てきています。
史料探しはこれからですが、宜しくお願いします。
養子があるから、血のつながりがなくても、家は継承できる。
どこもみんなそう。天皇家ですら。
家系図がおかしくなる理由の一つ。
まず伺いたいのですが、このコメントの趣旨は、安城松平家に養子があったというご指摘なのでしょうか。私が申し上げた人物比定の難しさとは、たとえば北条氏尭のような例を指しております。史料の解読が進まず、系図上どこに位置するかの解明が誤っていたことがありました。
但し、養子・猶子によって系図がおかしくなるということは聞いたことがありません。養子を迎えるということは、逆に系図上きちんとしなければ周囲から認められないかと。史料が不足しているか、何らかの改竄が行なわれたという例の方が多いのではないかと思いますが、如何でしょうか。
篠島出身の等膳和尚が家康を救った、という逸話を調べています。等膳は可睡齋11代住職であり、浜松城主だった家康から10万石という莫大な待遇を与えられます。可睡齋縁起などではありえない話を伝えています。10万石という大盤振る舞いに疑問を感じています。もし、何かお考えがあればお教えください。
篠島出身の等膳和尚が家康を救った、という逸話を調べています。等膳は可睡齋11代住職であり、浜松城主だった家康から10万石という莫大な待遇を与えられます。可睡齋縁起などではありえない話を伝えています。10万石という大盤振る舞いに疑問を感じています。もし、何かお考えがあればお教えください。
一先ず公開コメントのほうに情報を載せておきます。非公開でのやり取りのほうが宜しければ、こちらに書き込みを下さい[にこっ/]
コメントありがとうございます。疑問点は2点に分かれるかと思います。
■寺領10万石の一括寄進について信憑性があるか?
■等膳が家康を救った逸話の原型は何か?
ネットを調べてみたところ以下の情報が出てきました。
http://www.sousei.gr.jp/kouhou/sousei/144/sousei14_26.pdf
http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=4784205659
下の「可睡斎史料集 第1巻」が、最も確実な資料となります。図書館で取り寄せてみてはいかがでしょうか。
個人的には、篠島網元の石橋氏が広忠の亡命・復帰に尽力した可能性が高いかと考えています。
早速の返答ありがとうございました。
非常に参考になると思います。早速、調べてみます。
その節は山内上杉家についての理解を深める機会を与えてくださり、ありがとうございました。
突然ですが、元亀2年4月23日付上村庄右衛門尉宛長尾景直書状(『上越市史 上杉氏文書集一』1045号)に思うところがありまして、ご質問させてください。
この書状を受け取ったと思われる上村庄右衛門尉は、徳川家康の重臣植村出羽守家存(栄政。家政。新六郎)の一族植村庄右衛門尉正勝(三河三奉行)らしいのですが、天正11 ・12年頃の文書にも庄右衛門尉として確認できますでしょうか。
高村さんは、東海地方の大名の史料も多く所持されておられるようなので、若しお分かりでしたら、よろしくお願い致します。
コメントありがとうございます。植村氏についてですが、天正10年頃だと愛知県史資料編11か新編岡崎市史第6巻が史料を掲載しているように思います。どちらも手元にありませんので確証はありませんけれど。
『戦国人名辞典』(吉川弘文館)を引いてみたところ、
植村氏は美濃国出身で、遠江国在住を経て三河国に至り、松平長忠に代に家臣として仕えたとされる。
植村家政は1571(元亀2)年8月1日に上杉輝虎から家康への取次ぎを依頼されている。1577(天正5)年11月5日に小者に刺殺される。
出典:愛知県史資料編11(775号)、上越市史別編1(1057号)、家忠日記(1577(天正5)年11月条)、寛永伝・寛政譜。
という内容がありました。また、出典は不明ですが信康自刃に連座して追放されたという記述を読んだ記憶があります。もし愛知県史11を見る機会があれば、留意しておきますね。
あの、仮説1はそれなりに説得力がありますが、仮説2だと50歳前後になってようやく嫡子に恵まれたという事になってしまいますが。
コメントありがとうございます。高齢での実子誕生は、今川範政・三浦時高と藤堂高虎の例があると考えていました。羽柴秀吉の場合はちょっと信憑性が低いですが……。
仮説2については、家督継承時が「信忠」で、実弟の信定を養子にした後は「清康」、実子を得て信定排除に動いたのが「広忠」という具合に名乗りを変えていったという仮説も成り立ったら面白いなと思っています。裏づけはこれからですが。