今廿三日下条志摩守罷帰、如申者、向懸川取出之地二ケ所被築、重而四ケ所可有御普請之旨候、至其儀者、懸川落居必然候、当陣之事、山半帰路以後、弥敵陣之往復被相留候之条、相軍敗北可為近日候、可御心安候、随而上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守人質替、最前之首尾相違、貴殿ヘ不申理候由、御述懐尤無御余儀候、惣而駿州衆之擬、毎篇自由之体、以此故不慮に三・甲可有御疑心之旨、誠於于其も迷惑に候、此度之様体者、当国安部山之地下人等企謀叛候之間、過半退治、雖然、山中依切所、残党等于深山に楯籠候、彼等降参之訴詔、頼上野介・朝駿候、為其扱被罷越、永々滞留、既敵近陣候之処に、雖地下人等降参之媒介候、経数日駿府徘徊、信玄腹立候キ、三日以前告来候之者、人質替之扱之由候、信玄被申出候者、於于甲州大細事共に不得下知而不構私用候、況是者敵味方相通儀に候之処、不被窺内儀而如此之企無曲候、以外無興、上野介被停止出仕候、小伊豆・朝駿事者、唯今之間〓[尸+婁]幕下人に候之間、無是非之旨候、是も信玄腹立被聞及候哉、無出仕之体に候、元来於某人質一切に不存候、御使本田百助方に以誓言申述候、尚就御疑者、公私共に貴方不打抜申之趣、大誓詞可進置候、所詮甲州に候御息女之事返申之旨候之間、可御心易候、委曲之段、本田百助方被罷帰候砌、可申候、恐ゝ謹言、

 山県三郎兵衛尉 昌景(花押)

二月廿三日

酒井左衛門尉殿

  御陣所

→戦国遺文 今川氏編2280「山県昌景書状」(東京都・酒井家文書)

永禄12年に比定。

 この23日に下条志摩守が帰りました。申しているように、掛川に向かって砦2箇所を築造され、重ねて4箇所を建造中のことです。それが実現すれば掛川が落城するのは必然です。当陣のこと。『山半』帰路以後は、ますます敵陣の往復が留められていますから、相模国の軍は敗北も近いでしょう。ご安心下さい。ということで上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守の人質交換、直近の首尾が相違し、貴殿へ理由を説明しなかったとのこと。ご説明はもっともなもので異論はありません。総じて駿河国衆の計らいはいつも勝手な都合で、この理由をもって三河・甲斐にお疑いがあっては、本当に私も困ってしまいます。今回の状況は、当国安部山の地下人たちが謀反を企てたので、過半を退治しました。とはいえ、山中で難所に拠って残党が山奥に立てこもっています。彼らは降伏するための交渉を、上野介・朝比奈駿河守に頼みました。その処置のためにいらっしゃって長々と滞在し、すでに敵の陣近くにいたところに、地下人たちが降伏の仲介とはいえ、数日にわたって駿府を徘徊し、武田晴信は立腹しました。3日以前に告知されたのは、人質交換の扱いとのことです。晴信が申し出たのは、甲斐国においては、大事でも小事でも指示を得ずに私用を構えてはならないとのこと。いうまでもないが今回は敵味方が通じることだったところ、内情を調べずにこのような企てをしたのはつまらないことです。もってのほかで面白くありません。上野介は出仕を停止させます。小原伊豆守・朝比奈駿河守のことは、現在しばしば幕下人になっていますので、是非もないことです。これも晴信が立腹していると聞いておりますでしょうか。出仕していない状況です。もともと私は人質の件は一切知りません。ご使者の本田百助方に誓言で申し上げています。さらにお疑いでしたら、公私ともにあなたが『打抜』せず申された趣旨を、大誓詞でご提出しましょう。結局のところ、甲斐国にいるあなたのご息女はお返ししますから、ご安心ありますように。詳しくは、本田百助方が帰られた際に申されるでしょう。

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