一、先年織田信長へ御使可遣候時分、惣国へ分銭懸り候、我ゝ手前へも黄金三枚あたり候、則家中ヘ可申付候へ共、手まへの以失墜大途へ納候、諸人之手前勿論知行役ニかけ候事、
一、先年土肥之御普請かゝり候、我ゝ手前を以可致ほとを被申付候、永楽百余貫・兵粮五百つ■仕候、其上何共不成候間、家中へ申付、少之所為出候、其外宮之前御門番匠手ま人具へかけ候て、永楽七十六貫文入目候キ、其内卅五貫文、我ゝ手前より出前候、是も自分を以致候、其上至唯今もあなたこなたの破損内ゝ御印判参候へ共、手まへの分銭を以今日まて致候間、当年も破損普請■はや永楽拾五貫文仕候、先日参苻之時分、すなはかり五千駄、大栄寺之まへへ付候、是も家中之者ハ知るましく候事、
一、此度京都御一所ニ成、家康以御取持美濃守上洛候、其分銭弐万貫入由候、此方手前へも、定而三百貫も四百貫も可懸候、如何共可致様無之候間、知行役・扶持役之随分限可為出候、其上十ケ年以来請郷へ、号扶持銭棟別赦免候、当年加様之方迄も、前ゝ之役半分可為致候、左候へ者、永楽銭五拾銭可出候事、
一、此さし引候ヘ者、我人為指失墜ニも無之候間、六月廿七八両日ニ、此分銭調、於御番所黒沢・八木・石井・奥、此者へ可渡候事、
右条ゝ、自分同心見分可有其調、黄金・出物・わた此三様を以、可為調次第者也、仍如件、
子[印文未詳]
秩父孫二郎殿
六月七日
同心■中

→小田原市史 中世I 715「北条氏邦朱印状写」(武州文書十八)

天正16年に比定。

 一、先年織田信長へご使者を派遣した時分、惣国へ負担金が課されました。私たちの元へも黄金3枚が課せられました。すぐに家中へ指示しようと思いましたが、私の手持ちで大途へ納めました。他の家では勿論、知行役として課されました。一、先年土肥のご普請にかかった際、私たちに『ほと』をするよう指示が来ました。永楽銭100余貫文・兵糧500ずつです。その上どうにもならなかったので、家中へ指示し、少しだけ出させました。そのほか、宮の前ご門の番匠の手間賃として永楽銭76貫文入金しました。そのうちの35貫文は私たちの負担で拠出しました。これも私の手持ちで済ませました。その上、現在に至ってもあちらこちらの破損などで内々のご印判が来ていますけれども、私の分銭で今日までの間は払っています。ですから当年も破損普請は早くも永楽銭15貫文にもなります。先日小田原に行った時、砂秤5,000駄を大栄寺の前へ付けました。これも家中の者は知らないことでしょう。一、この度京都とご一所になり、家康のお取り持ちをもって美濃守が上洛します。その分銭2万貫文が必要だということです。こちらの分担としてきっと300貫文も400貫文も懸けられるでしょう。どうやっても捻出するようにとのことですから、知行役・扶持役から相当量を拠出しなければなりません。この10年来『請郷』へ、扶持銭として棟別を免除しました。今年はこのような郷でも、前々と役を半分にします。そうやって、永楽銭50貫文を出せるだろうこと。一、この差し引きではありますが、私たちは指したる損失にもなりませんので、6月27、28の両日にこの分銭を調達して、ご番所の黒沢・八木・石井・奥に渡して下さい。右の条々は、あなた自身と同心で調査して調え、黄金・出物・木綿の3種類で調達なさるように。

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