急度令啓候、抑已前度ゝ申達候、至野州口近日可致出張候、内ゝ以使、始中終所存雖申述度候、路次不自由之間、不及了簡候、願者至于中旬、向佐竹御出張所希候、若替儀有之者、重而可申入趣、委細弟候源三可申候、恐ゝ謹言、

三月廿二日

 氏政

蘆名殿

→戦国遺文 後北条氏編1643「北条氏政書状写」(歴代古案七)

1573(天正元)年に比定。

 取り急ぎご連絡します。そもそも以前より度々申し達していました。下野国方面に近日出撃するでしょう。内々に使者をもって、最初から最後まで所信を申し述べたく思っていますけれども、交通が不自由なので、実行に及びませんでした。願わくば中旬に、佐竹に向かいご出動をこいねがうところです。もし変更がある際は重ねて申し入れるでしょうこと、詳細は弟の源三が申すでしょう。

懇望・悃望の用例についてまとめた。なお、懇望と関係が深い『赦免』は、検証a18:刈谷赦免についてでまとめているのでご参照を。

a 懇望された側が明記された場合

a-1 斯波義達から上杉顕定へ

就遠州之儀、従屋形管領へ依懇望被申子細候、去春以来当国致滞留候

a-2 伊勢外宮(話者)から六角定頼へ

抑両太神宮御仮殿朽損以外候、然間、六角殿江依懇望、内宮御仮殿造替候

b 懇望した側が複数記載されている場合

b-1 椎名康胤らから上杉輝虎(話者)へ

初推名何も敵躰候者共、雖悃望候、とても見詰候間

b-2佐竹義重・宇都宮広綱・東方衆・北条氏政から白川義親へ

条々御懇志本望至極候、仍旧冬於関宿始佐・宮東方之衆、氏政懇望、就此儀、御存分具被露御紙面候

b-3 長尾憲景・長尾景房・長野業正から上杉輝虎へ

為始北条孫次郎、宗者数百人被討捕、白井・惣社・蓑勾悃望之段風聞、目出度奉存候

 

[warning]b-2については、「佐竹義重・宇都宮広綱・東方衆から北条氏政へ」という解釈も取りうるが、現段階では氏政を懇望される側には置いていない。文の用例だけを見るならば、aで見たように懇望された側の人称が記載される場合、単純に『人称→懇望』という並びではなく『人称→江(依)懇望』という形式が取られるため(「依」は前後の状況から入れられるので、必須条件ではないだろう)。文意や史料の収集状況によっては、この定義は変更になるだろう。[/warning]

 

c 懇望された側が話者=差出人ではない場合

c-1 本庄繁長から伊達輝宗・蘆名盛興へ

其表之儀、本庄逆心付而、去初冬ヨリ御在陣、至只今無手透被取結、外廻輪悉被為破(扌+却)、落居不可有程之由、珍重候、就其伊達・会津相頼、令懇望由承候、左候者、在赦免可然候歟、御思慮此節候

c-2 北条氏政から武田晴信へ

越甲何与哉覧取成ニ付而、氏政悃望動之由申候、兎角ニ堅固之動ニ者有之間敷候

c-3 由良国繁から北条氏政へ

当秋之動、由良信濃守依懇望候、去十五日出張

d 懇望された側が話者=差出人の場合

d-1 佐竹義重から北条氏直へ

将又佐竹様ゝ悃望之間、令赦免

d-2 奥平定勝親類から今川義元へ

今度九八郎就構逆心、可加成敗之処、各親類九八郎於永高野江追上、監物儀谷可引入之由、達而之懇望之条、赦免之上

d-3 三好方から足利義昭へ

去春已来三好かたより、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重ニ存之由候き

d-4 藤田康邦から北条氏康へ

并高松筋へ散動之事、藤田色ゝ令懇望間、一動申付可打散存候、御人数之事御大儀候共、御用意肝要候

d-5 匂坂長能から今川義元へ

此人等去年令逆心之条、雖可遂成敗、長能入道依無無沙汰令懇望之条、各免除

d-6 織田信秀から今川義元へ

今度、山口左馬助、別可馳走之由祝着候、雖然、織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候

「懇望・悃望」の語義としては、それぞれの文の解釈を踏まえると以下のような分布がある。完全に網羅していないのであくまで参考例ではあるが、軍事用語としてある程度機能しているように見える。

経済的援助の要請 1例 a-2
謀叛による罪の免除要請 3例 c-1/d-2/d-5
降伏時手続き上の要請 5例 b-1/b-3/d-1/d-3/d-6
援軍・共同作戦の要請 5例 a-1/b-2/c-2/c-3/d-4

大平致帰国付而、乍便啓達、抑其以来令絶音問、意外令存候、其時分態預脚力候、於宇都宮・皆河堺越度候、無是非存候、雖然、御状三通ハ無相違自皆河参着、披見申候、盛興御遠行、於拙者落力、御心中察存候、更以、難尽帋面候、内ゝ此趣疾雖可申達候、路次不自由故、乍存罷過候、全不可在私曲候、何様企使僧可申入候、兼又、当秋之動、由良信濃守依懇望候、去十五日出張、十余日在陣、大胡・厩橋領無所残成于〓[土+盧]、被納馬候、近日重而当口可為出張候、其口ゝ御弓箭達、如何無御心許存候、節ゝ御音問、可為祝着候、次、大平・小関・新井罷上付而者、拙者所へ直ニ可参由、向後者堅被仰付、可為本望候、事ゝ令期来信候、恐ゝ謹言、

八月十二日

源三 氏照(花押)

蘆名殿 御宿所

追啓、去年被懸御意候、鷹・鶴・雁・鴻、無比類致逸物候、然を、難去自方所望、無了簡遣候、其以来、鴻鳥・鷹持絶候、鴻、逸物之鷹所望存候、被懸御意候者、可為大慶候、為其、抛思慮申候、此外不申候、以上、

→戦国遺文 後北条氏編1718「北条氏照書状」(名古屋大学文学部所蔵文書)

1574(天正2)年に比定。

大平が帰国するのにつけて、ついでですがお伝えします。そもそもそれ以来音信を絶っていましたが、意外なことでした。その自分は折り入って飛脚を使い、宇都宮・皆川との境界で落ち度がありました。是非もないことです。とはいえ、ご書状3通は相違なく皆川から到着して拝見しています。盛興が亡くなったこと、私も力を落としています。ご心中お察しします。更には紙面では尽くしがたいことです。内々にこの趣旨を早く申し達そうと思っていましたが、交通が不自由なので、知っていながら時間が過ぎてしまいました。私曲があってのことでは全くありません。どんな様子かは使僧を用意して申し入れます。かねてまた、この秋の作戦、由良信濃守の懇望によりまして、去る15日に出動、10余日在陣しました。大胡・厩橋領を残すところなく黒土にして、馬を納められました。近日は重ねてこの方面へ出動するでしょう。そちら方面各所の戦況はいかがかとお心もとなくお考えです。節々でのご連絡は祝着なことでしょう。次いで、大平・小関・新井が上ってくる際は、私のところへ直接来るようにと、今後は堅くご指示下されば本望なことです。その他諸々は次の機会を期します。

追伸:去る年お気にかけていただいた、鷹・鶴・雁・鴻は、比類のない逸物でした。それを、どうしても方々より所望され、考えもなく渡していたら、それ以来鴻と鷹はなくなってしまいました。鴻と、逸物の鷹を所望します。お気にかけていただけるならば、大慶でしょう。そのために、思慮をなげうって申します。このほかには、申すことはありません。

急度預御一翰御使ニ候、再三披見恐悦候、如来書、其以来遠境不自由故、絶音問候、仍去夏御息動之剋、御立遂面上本望候、尤於向後対御父子へ不可存疎隔意候、然而愚息左衛門大夫別而貴殿申合候由、連ゝ申事ニ候、愚老本望不過之候、扨又今度氏政不図出馬、当地関宿へ被取詰候処ニ、兼日之従擬、敵流之外早速本城へ引籠候、流之儀更以渡無之深早候間、流之外曲輪三ケ所自昨日普請堅固ニ被致之、人衆無不足差置、縦敵取掛候共、心易相拘候様ニ可被申付段ニ候、其上世上静ニ付而者、流之儀如何様ニも可被及行段迄ニ候、爰許取寄之模様、御使可為御見聞間、具不及申達候、猶御息左衛門太郎殿無二ニ可申合覚語ニ候、委由御両口ニ申達候、恐ゝ謹言、
霜月四日
 北条上総入道 道感(花押)
[宛名欠]

→1733「北条道感(綱成)書状写」(香取大禰宜家文書)

天正2年に比定。

取り急ぎのご書状を預かりましたご使者です。再三拝見して恐悦しています。来書のように、それ以来遠隔地の不自由ゆえに音信を絶っていました。さて去る夏ご子息が出動した際に、(そちらを)お立ちになり面会を遂げ本望に思います。もっとも、今後においてはあなた方父子へ疎隔の意はないでしょう。そして愚息の左衛門大夫が、格別に貴殿に申し合わせていること、幾度も申している事です。さてまた、この度氏政が急に出馬し、この地関宿へ取り詰めましたところに、以前のように、敵は流れの外に出てすぐ本城へ引き籠りました。流れは更に渡れないほどに深く速かったので、流れの外に曲輪3箇所を昨日から普請し堅固になさっています。部隊を不足なく配置し、たとえ敵が攻めかかっても安心して保持できるようにお申し付けの段取りです。その上世上は静かになっていますから、流れのことがどうなろうとも、作戦を行なえるように取り計らっています。こちらで攻囲している様子は、ご使者がご見聞なさるでしょうから、詳しくは申し達すに及びません。さらにご子息左衛門太郎殿にもっぱら申し合わせる覚悟です。詳しいことはご両人の口から申し達します。

向白川御出馬之由、其聞候■無御心元旨、義重へ以使申届間、可然様御指南、可為本望候、就中白川之儀、不一代申通之条、同者一和之儀所希候、於御馳走者可為本懐候、猶源三可申候、恐ゝ謹言、

二月十二日

 氏政(花押)

佐竹中務太輔殿

→小田原市史 資料編1143「北条氏政書状写」(諸家文書)

花押形より天正2~4年頃に比定。

白川へ向かってご出馬とのこと、それを聞きまして、お心元ないという旨を義重へ使者を出して申し届けましたので、しかるべきようにご指導いただくのが本望です。とりわけ白川のことは、一代だけではない交流がありますから、同じく一和となること強く望んでいます。ご奔走いただけますと本懐です。さらに源三が申すでしょう。

御貴札奉披閲候、■承意、輝虎出張東上州ニ在陣、其上去月十日号桐生地へ兵粮可指入擬を以、越州■■■■処、頓速被乗向候之条、兵粮一粒も城中へ不入得、剰翌朝退散候、指向所雪水満水人馬之渡依無之、川上へ押廻、無二可遂一戦由被存候処、越国境号沼田地へ引籠候者、此度不被遂一戦儀、無念之由被存候、然而羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落、於当表之備者、如存被致之候、此上一昨二日当地関宿へ進陣、当作毛不残被払捨候、明日被致利根越河幸嶋郡作振捨、其上小山寄旗、宇都宮表之働可致之由存候、爰元之様子御使僧御見聞候者、不能細説候、就中其表之御様子条ゝ御頭書并御口上承届上、氏政ニ為申聞、彼存分具ニ御口上申渡候、重而使被差越、互御誓約被成尤候、盛氏ハ去年此旨趣被仰之上、互御誓約被取替候、惣別只今迄者、御遅ゝ候て、様子委細御使僧口頭ニ頼入之由、被聞召届、早速重而御使御尤候、万端奉期重説候、恐ゝ謹言、

五月四日

北条左衛門大夫 氏繁(花押)

白川江

→戦国遺文 後北条氏編1702「北条氏繁書状」(並木淳氏所蔵文書)

1574(天正2)年に比定。

ご書状を受け取り拝見しました。意を承ったように、上杉輝虎が出動して東上野国に在陣し、その上去る月10日、桐生という地へ兵糧を搬入しようという意図で越後衆が(荷を運んでいた?)ところ、すぐさま乗り向かわれたので、兵糧は1粒も城中へは入れらず、更には翌朝退散しました。向かったところは融雪で満水となり人馬が渡れる場所がなく、川上へ押し向かいひたすら一戦を遂げることをお考えだったところ、越後国との国境の沼田という地へ引き籠ってしまい、この度は一戦を遂げられませんでしたこと、無念だとのお考えです。そして羽生へ馬を寄せられましたところ、近年岩槻へ向かい築城した花崎という地がすぐに自落しました。この方面の備えは思うがままになされています。この上で一昨日2日にこの地関宿へ陣を進め、この農作物を残らず払い捨てられました。明日利根を渡河なさって猿島郡の作物を振り捨て、その上小山に旗を寄せて宇都宮方面での作戦をすることと考えております。こちらの様子はご使僧がご見聞なので細かくは申しません。とりわけそちら方面のご様子は箇条書きのご頭書とご口上にて承りました上は、氏政に申し聞かせます。あちらのお考えはつぶさにご口上で申し渡しました。重ねて使者を差し越され、互いにご誓約をなされるのがもっともです。蘆名盛氏は去る年この趣旨を仰せられた上、互いのご誓約を交換なさいました。総じて今のところは遅くなられておりますので、様子・委細はご使僧の口頭に頼み入ること、お聞きになり届けられ、早速重ねてご使者を出されるのがもっともです。色々と続報をお待ちしております。

急度染一筆候、仍自氏政如催促者、以其表之人数、至沼田・厩橋之間、一動所望由候、無拠儀候条、各乍大義、内藤有談合、河東へ可被相勤事肝要候、委曲令附与玄東斎口上候間、不能具候、恐ゝ謹言、

壬十一月九日

 勝頼(花押)

浦野宮内左衛門尉殿

→戦国遺文 武田氏編2395「武田勝頼書状写」(尊経閣文庫所蔵小幡文書)

1574(天正2)年に比定。

 取り急ぎ一筆申し上げます。さて、氏政よりの催促によれば、その方面の部隊を使って沼田と厩橋の間でひと作戦所望したいとのこと。よんどころない事情ですから、皆さん大変でしょうが内藤と打ち合わせをして、利根川の東へ出動なさることが大切です。あらましは日向玄東斎に口頭で付与していますから、詳しくは書きません。

極月十二日之御懇札、当年昨九日令披見候、条々御懇志本望至極候、仍旧冬於関宿始佐・宮東方之衆、氏政懇望、就此儀、御存分具被露御紙面候、尤子候左衛門大夫ニ申付、氏政具為申聞候様ニ、随分意見可申付候、幸佐・宮和之上者其口之調儀有之間鋪之由、深存候、此一事委氏政為申聞候様、左衛門大夫可申付候、今月十日小田原愚老父子致参府之間、尤以早速可為申聞候、申迄雖無之候、累年申合意趣今般不預思慮申達候、莵角ニ対佐竹無油断其御用心専要迄候、珍説候者重而可蒙仰候、猶委細者御使僧口上ニ申達候、恐ゝ謹言、

正月十日

 道感

白河へ

 参 貴報

→小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』40ページ「北条道感書状写」(古案)

1575(天正3)年に比定。

12月12日のお手紙、今年になって昨日9日に拝見しました。条々にあるお気持ちを伺えて本望至極です。さて去る冬に関宿で、佐竹・宇都宮を初めとする東方の衆、氏政が懇望しました。このことについて、お考えを詳しく書面にお示しになりました。尤も、子である左衛門大夫に申し付けて、氏政へ詳しく申し聞かせるように、随分と意見を申し付けましょう。幸いに佐竹・宇都宮と和議になった上は、その方面への調儀があってはならないこと、深く存じております。このことは、細かく氏政に申し聞かせるように、左衛門大夫に申し付けましょう。今月10日に小田原へ私ども父子が参府いたしますから、尤も、早速申し聞かせましょう。申すまでもないことですが、累年にわたり申し合わせている意趣は考えるまでもなく申し達します。ともかくも、佐竹に対してご油断なさらぬことが大切です。何かありましたらまた仰せを蒙りましょう。さらに詳しくは御使僧が口上で申し達します。