極月十二日之御懇札、当年昨九日令披見候、条々御懇志本望至極候、仍旧冬於関宿始佐・宮東方之衆、氏政懇望、就此儀、御存分具被露御紙面候、尤子候左衛門大夫ニ申付、氏政具為申聞候様ニ、随分意見可申付候、幸佐・宮和之上者其口之調儀有之間鋪之由、深存候、此一事委氏政為申聞候様、左衛門大夫可申付候、今月十日小田原愚老父子致参府之間、尤以早速可為申聞候、申迄雖無之候、累年申合意趣今般不預思慮申達候、莵角ニ対佐竹無油断其御用心専要迄候、珍説候者重而可蒙仰候、猶委細者御使僧口上ニ申達候、恐ゝ謹言、
正月十日
道感
白河へ
参 貴報
→小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』40ページ「北条道感書状写」(古案)
1575(天正3)年に比定。
12月12日のお手紙、今年になって昨日9日に拝見しました。条々にあるお気持ちを伺えて本望至極です。さて去る冬に関宿で、佐竹・宇都宮を初めとする東方の衆、氏政が懇望しました。このことについて、お考えを詳しく書面にお示しになりました。尤も、子である左衛門大夫に申し付けて、氏政へ詳しく申し聞かせるように、随分と意見を申し付けましょう。幸いに佐竹・宇都宮と和議になった上は、その方面への調儀があってはならないこと、深く存じております。このことは、細かく氏政に申し聞かせるように、左衛門大夫に申し付けましょう。今月10日に小田原へ私ども父子が参府いたしますから、尤も、早速申し聞かせましょう。申すまでもないことですが、累年にわたり申し合わせている意趣は考えるまでもなく申し達します。ともかくも、佐竹に対してご油断なさらぬことが大切です。何かありましたらまた仰せを蒙りましょう。さらに詳しくは御使僧が口上で申し達します。
こんにちはたけだです、先日はたいぞう様のブログでお世話になりました。高村様、史料を毎回全訳なさるとは、それって本当に難しいのにすごい、と拝見するたび思います。
ご訳文、調儀有之間鋪=調儀があってはならない、という箇所が気になりました。そういう意訳があり得ないとまでは言いませんが、素直に読めば、調儀がない、ではないかと思いました。あと刊本の比定は天正3年ですね、単純なミスプリか、高村様オリジナルの比定でしょうか。
ご指摘受け、この文書読み返しました。やはり難しい史料ですね、専門家でも解釈の分かれる部分があるかも・・・と思いました。当方も理解・解釈に確信までは持てませんでした、他の材料もあるかもしれませんし。
「御紙面」は白川が書いた手紙、「懇望」(大雑把にいえば関宿での和議開城を指すと理解)の件についてのものでしょうけど、主な内容は白川の「御存分」ではないかと。そこには、「幸佐・宮和之上者其口之調儀有之間鋪」という白川の観測も含まれていたと解釈しました、箇所が「御紙面」と離れてはいますが、文章の流れの中で付け足しのように往信の内容を適宜引用するのは(手書きの返信に)まぁあることと理解しました。
そうした白川の「御存分」(+「累年申合意趣」)について、綱成が主に息子氏繁を通じて氏政に伝えさせるというのが、綱成の白川への主な伝達事項(佐竹への警戒を白川に呼掛けてもいますが)と解釈しました。
先日の理解と基本的な変更なく済んだ感じです。私は他の史料から「懇望」は氏政に佐竹・宇都宮はじめ東方之衆がしたと理解していて、これも高村様との相違点でしょうか。高村様のご理解では、氏政が「懇望」したなら誰に対してなのか、あと、上記の観測が白川でないなら誰によるものなのか、確認したく存じました。
あくまで(自分がみた材料のなかで、なるべく高い整合性を目指した)解釈・理解の案です。よりよい案があれば、自説には勿論こだわる理由ないです、私にとっては、どのあたりが上記の案だとマズイかが問題になります。勉強になりますので、ご教示頂ければと存じます。
コメントありがとうございます。たけだ様から早々にお書き込みいただけまして光栄です。なにぶん独学でやっていますので、史料の解釈はかなり当て推量が入っている筈です(真摯に取り組んではおりますけれど)。今後もご指摘いただけると嬉しく思います。年比定については単純に私の誤記です。失礼しました(早速訂正いたしました)。
この文書は、仰るように難しいです。明日以降2点史料をアップ、引き続き「懇望」の他文書での実例をとりまとめてから、私なりの仮説の根拠をまとめてみる予定です。コメントが分立するとややこしいので、詳しくはそちらで申し上げようと思いますので少々お待ちを。
ただ、現時点で1つご質問を返させて下さい。
文書中の「有之間舗」は「有間敷」の強調形なのかと考えていますが、「間敷」は「禁止・否定的な推量」だという認識でおりました。他文書でよく出てくる「本意程有間敷」「相違有間敷」が前者・後者の意味だろうと考えていました。単純に「ない」という意味では、「調儀無之」になるかと。この点他に解釈例があったらお教え下さい。
なお、先走るようですが、私がこの文書で検討してみたいのは、人称が羅列された場合の用例です。「人称A、人称B、人称C、人称D、<動詞>」という文で、動詞の目的語として人称Dが用いられることはあるのか、というのが前々から気になっていました。有名どころだと上杉顕定の「西郡一変」で議論されていましたが、人称Dを目的語として許容すると、今度は人称CやBはどちらなのか判らなくなる、というか読み手によって恣意的になるのではないかという疑問点がずっとありました。今回の「始佐・宮東方之衆、氏政懇望」では、佐竹・宇都宮・東方の衆・氏政が人称で挙げられています。「初めとして~」とあるので対象は複数、つまり佐竹・宇都宮までは確実ですが、東方之衆は文法上目的語にもなり得る訳で、ここが微妙だと思っています。読み手が事情を判っているのでそこは区別していなかったという仮説も成り立つのですが、「西郡一変」文書で顕定は遠方の長尾能景に相模の複雑な事情を伝えており、解釈に幅のある書き方は避けた=列挙された人称は動詞の目的語にならないという共通理解があった、と考えた方が自然なのではないかと思っています。あくまで憶測ですが……。
私もたけだ様と同じく、是々非々でいければと思います。自説に固執する積もりはありませんので、自由にお考えをいただければ幸甚です。
高村様、独学なんですね。当方正直、舌を巻いております。私が独学だとしたら、そこまで読めるように到底ならなかったでしょう。真摯にやっていらっしゃるのは、それはもう充分にわかります。
『日本国語辞典』の「まじ」の項で用法見てみました。おっしゃるとおり、あってはならない、というように訳した方がよい用法も確かにありました、ただ竹取物語とか平家物語といった、少し古い用法のように思える感じでしたが。
でも辞書はあくまで目安ですので(高村様とは関係ない話ですが、しかし最近メインで考えていらっしゃる問題に関し、プロなのにこのイロハを分かってない?と思えるご見解を耳にしました・・・おっと余談でした)、もう少し、同時代の用法を調べてみました。
東大史料編纂所HP↓のデータベース
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html
見てみました。
「下京中陣取并新儀諸役有之間敷」・「公事有之間敷候」・「疑毛頭有之間敷候」・「天下之赦免有之間敷者也」(信長文書、元亀4年・天正6年・同8年6月・同年8月)、「聊尓成動之儀有之間候」(毛利家文書、天正14年10月)、「愛岩、白山、偽有之間敷候」(吉川家文書、文禄2年)。ついでに「喧嘩口論仕立候者、双方其罪遁間鋪事」(武家家法3、永禄2年)。
※「間敷」の検索結果は多すぎて割愛しました。また前後の文脈を踏まえた一々の訳は、関係史料ではありませんし、煩雑ですので御勘弁を。
「あってはならない」とはすべきでない(もしくは、少なくとも訳は単に「ない」でよさそうな)用法が多いように思いました。しかし吉川家文書の起請文のように「あってはならない」としてもよいかな、というのもありました。
というわけで、上記拙コメントで、そういう意訳があり得ないとまでは言いません、とまでしたのは言い過ぎでした。申し訳ございませんでした。文脈によっては「あってはならない」というような解釈もありうる、と訂正いたします。
※なお「之」は、強調もありうるけど、語調を整えるとか別の場合もありえるのではないかと思いました。読み下すとき、置き字として読まないこともあるようですしね。これも文脈次第でしょうか。
で、目的語の件ですけど、何とも言えないと思いました。日本語はそんなに文法を厳格にとらないんじゃないかと思います。私は文法のプロではないので、いい加減なこと言わない方が良いかもしれませんが、(現代語ですが)日本語のネイティブスピーカーとしての実感ではあります。会話や通信のなかで、単語を並べて主語や目的語みたいなのは当事者同士で分かれば良い、みたいなことはよくあるんじゃないかと。基本的に、こういう手紙の書き手は、後世の人々に情報を伝えるまでは考えてはいないでしょうし。私は、高村様がおっしゃった「仮説」を基本的に想定した方が(「共通理解」を想定するより)自然ではないかと思います。
だから、人名が複数並んだあとに動詞のようなものがあった場合、その文章だけでは、人名のうちどれが主語でどこまでが目的語のようなものかは、全くの第三者には分からないんじゃないかと。分からない場合、私などは、大方の文献史学者もそこは大差ないと思いますが、他の材料を探してきてそれを使い、当該記述の文脈をはかり、確定をはかっています。安易に恣意的な判断をするのを避けるためです(ただその判断が甘かったり、根拠のない思い付きレベルだと、恣意的と言われるでしょうね)。それが、たいぞう様の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/chip3vanilla/33339979.html)で私がやってみたことです。
ただ、当然ですが、文法を考えてはいけないなどとは決して思っておりません。他の材料は足りないけど判断が必要なときなんかは、文法的に突詰めてみることもあると思います。西郡一変の話では黒田基樹氏がそれをしたんでしたっけ。ただ、全ての事例に最初から過度に突詰めるのは、得策ではないと私は思います。
とはいえ、ある程度まで(たとえば情勢の判断が必要になるまで)は、文法を考慮に入れる必要があります。また高村様がやっていらっしゃるような、史料をたくさん集めて同時代での語義や用法を考える作業は、すごく重要です。
何と言うか、史料から必要な情報を得るには、文法的な判断と情勢や文脈からの判断とのバランス・匙加減が重要であり、腕の見せ所というところでしょうか(言うは易し・・・ですが)。
以上、ひとまずよろしくお願い致します。回答になっていればよいですが。こちらも普段意識しないことを整理して言語化できるなどし、すでに大変勉強になりました。どうもありがとうございます。
↑の下記の部分、直し忘れに気付きました。何度も申し訳ございません。
「「あってはならない」とはすべきでない(もしくは、少なくとも訳は単に「ない」でよさそうな)用法が多いように思いました。しかし吉川家文書の起請文のように「あってはならない」としてもよいかな、というのもありました。」
を、
「私は大体「ない」と訳しますけれど、「あってはならない」としてもよいのかな、というのもいくつかありました。」
と差替えさせてください。
コメントありがとうございます。ご回答嬉しく拝見しました。ただ、本当に無手勝流なので、過分なご評価恐縮しております。基本的な知識が足りていない部分はどんどんご指摘をお願いします。
「之」の挿入で強調になるかという点は、ご指摘を受け考え直そうと思いました。どうも私は現代語に流されて「~は、これを認めない」と言った場合に「~は認めない」より表現として強調されると思い込んでいたようです。この時代にそのような用法があったかはきちんと検証しないといけません。
「間敷」についても現代語から私は入っていましたので、禁止という意味から前は解釈しておりました。途中でこれはおかしいと気づき、「推量の可」の反対語としても意味するとどこかで読み、解釈に織り込んでいました。どの書籍かは失念しましたので、近日中に時代別国語辞典などを漁ってみてご報告しようと思います。といいつつ、辞書が当てにならないとのご指摘は私もそう思います。掲載されていないし、時代で結構意味が違います。とにかく用法を多数揃えていく作業が一番確実ですよね。
文法の揺れが存在する点。一応理解して臨んでおります。ただ、書状は特に「受け手が意図を把握してくれる」という大前提が必要になりますよね。意図的に曖昧にしたり、余り考えずに書いたりすることもあるでしょうけど、基本的には共通のコードに基づいて記述されていると思います。ここの勘所が数百年経てしまった私達には難解に感じられるのだと思いますが、やはり何かしらのコードはあると個人的には信じたいのです。とはいえどこかで「結局ゆるい文法しかなかった」という結論に至るかも知れません……そこに行き着くまでは解釈と検討を繰り返してみようかなと物好きにも考えています。
さて肝心の考察ですが、事前提示の文書数が2点から4点になってしまいました。その後で「懇望」の用例をリスト化したものをアップして本題に入ると思います。長々とかかってしまい申し訳ありません。検証するのに史料をあれもこれも足すのは悪い癖だと思ってはいるのですが……。暫くお付き合い下さい。
余談ですが、たけだ様のブログで取り上げられている名胡桃の件で、ちょっとニアミスしていましたね。件のサイトには私もコメントを入れていました。ここで申し上げることではないかと思いますが、あの件はたけだ様と同意見です。
コメント追記です。
時代別国語大辞典を引いてきました。間敷は、「1その実現を、否定的に推量する意を表わす。2その行為を、自ら強く否定する意志であることを表わす。3その実現が、否定されて当然であるとする意を表わす。4その行為を行うのは妥当でないと、禁ずる意を表わす。」とのことでした。また、邦訳日葡辞書では「【Maji、majij】話し言葉における未来の否定助辞である」とありました。
ここで少し引っかかったのが、否定の推量であるならば「不可」「非可」と「間敷」を当時の人間はどうやって書き分けていたのかという点です。少しばかり考えてみましたが判らなかったので、今後の検討課題の1つにしようと思います。検討課題だらけですけど……。