今川氏真が簗瀬九郎左衛門尉に宛てた文書について、私が当初試みた解釈が誤っていたため訂正を行なった。備忘録として、修正内容と根拠、適用範囲を書き記しておこうと思う。具体的にいうと、
為初奥平久兵衛尉・鱸九平次、随分者数多討取段
という文を、「奥平久兵衛尉、鱸九平次たちによって多数の者を討ち取った」としてしまった。他の文書を見ると、「為初」もしくは「為始」=「はじめとして」が用いられた場合、その後ろに「討捕」があったらその中間にある人名は討ち取られた対象を指す。
「北条孫次郎」は後北条方であるのは明確で、文書を発行した正木時茂が上杉方であるのも自明なので、討ち取られたのが孫次郎であるのは確実である。
信玄親類ニ、長円寺弟号本郷八郎右衛門人を為始、十余人討捕候キ
目的語が入れ替わっているが「信玄の親類で長円寺の弟と号している本郷八郎右衛門の人」は本来「為始」の後に来る言葉である。発給者と思われる北条氏政はこの頃武田晴信と敵対しており、討ち取った対象者は本郷八郎右衛門である。
今でも解釈に至らぬ点が多いのだが、これをアップした頃は未熟どころの問題ではない拙劣さで、該当文書の後半に「両人」とある割に宛所が簗瀬九郎左衛門尉だけだったので、ではこの2名は奥平と鱸だろうと早合点してしまった。その後、下記文書を解釈したので当然誤りに気づいてよかったものを、見過ごしていた。
原田三郎右衛門尉は簗瀬九郎左衛門尉とセットで動いているので、この文書の宛所に三郎右衛門尉がなかったとしても、両人といえばこの2名で通じたものと思われる。
上記を受けて、関連する下記ページを改めた。