今川義元が奥平定勝の忠義を賞した文書について、私が当初試みた解釈で不明だった部分が、改めて検討した結果解明できたので、備忘として記しておく。

同去年配当形之厚分等之事

という文を「同じく去る年配当した形の『厚分』等のこと」としていた。この結果『厚分』なる用語が不明なままだったが、文書全体を視野に入れてみると、ここは奥平定勝の弟である日近久兵衛尉の知行分を指している。

去年息千々代・同名親類等依忠節

 この忠節は、前年の1547(天文16)年8月25日に今川義元が作手仙千代・藤河久兵衛尉に宛てて約束した判物と呼応する。何らかの事情によって当主定勝が不在だった奥平氏に対して、義元が成功報酬を約束したものである。「藤河(ふぢかは)」となっているのは聞き違いからの当て字で、義元文書でもその後一貫して呼称している「日近(ひぢか)」が久兵衛尉の苗字であろう(但し、1541(天文10)年に義元が久兵衛尉に対して藤河を給したという記述が『作手村誌』にあるそうで、一概に断定はできない)。

 その翌年1月26日になって、義元は定勝の弟である久兵衛尉の謀叛が明確になったといって、久兵衛尉の本知行のほか、前年宛て行なった知行を定勝の所有とした。

 さてここで「厚」とされている字をよく似た「原」に読み替えてみる。この文書は「写」であるから、書写上誤っていた可能性は高い。そうすると、「形之原=形原」が浮かび上がってくる。日近久兵衛尉は、形原を恩賞として与えられていた。奥平氏本拠、山中七郷からも離れてはいるが、同文書中にある「遠江国高部」(静岡県袋井市)よりはよほど近いといえよう。

 形原については形原又七(松平家広)が牢人から復帰したことを竹谷与次郎(松平清善)に告げる文書の日付が天文16年閏7月23日なのが興味深い。書中で誇らしく給人として復活したことを告げている又七は、本知行が回復したかは書いていない。「今度牢人いたし候時、方々へ出し置候知行、手ニ入候事候共」とあるので、手元に戻ってきてはいない可能性もある。

 ここで形原の知行について整理すると、天文16年閏七月以前には、形原又七の手元からは離れていた。それが、田原侵攻を機に一気に西進してきた今川方によって、恐らく9月~12月の間に奥平一族の日近久兵衛尉に与えられている。となると、形原又七を牢人させ、本知行を所有していた人物は今川方によって追い払われていたと考えられる。又七が給人に回復できたのも、今川方の侵攻による政変があったからだろう。

 対抗勢力については、検証a21:小豆坂合戦の趨勢から、織田信秀の後ろ盾を得た岡崎の松平広忠と考えてほぼ間違いないだろう。

 形原については、1556(弘治2)年と思われる荒川義広宛今川義元書状でも触れられており、そこでは「荒河殿幡豆・糟塚・形原堅固候」とあって荒川氏所領になっている。

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