今月十日、小田原へ罷着刻、 御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人薤山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、 御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、 御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏[払]候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ[擬]見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、瀧山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無躰御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正躰為躰ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ薤山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、

追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無躰と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、

八月十三日

大石惣介

 芳綱(花押)

山孫

 参 人々御中

→神奈川県史 資料編3「大石芳綱書状」(上杉文書)

1570(永禄13)年に比定。

 今月10日小田原へ到着した際に、御状などをお出ししたので、途中から申し上げます。遠山左衛門尉は親子4人で韮山に在城しています。新太郎殿は鉢形にいらっしゃいますので、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われ、新太郎殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉の3人が御状を受け取って翌日お返事なさいました。
 互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか。または、新太郎殿に松田なりとも1人も2人も添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しましたが、伊豆国に信玄が陣を張っており、手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。
 そしてまた、御越山により厩橋に馬を納められた前提として、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、また宛行ないを考えようとのお考えがあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せるだろうと、山吉孫五郎が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得なく、余りに理解がなかったので、ならば左衛門尉大夫方の子を、どちらか1人倉内へ送るのか、松田の子でもいいので送ればと申しましたが、これも納得ありませんでした。ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人も3人も御陣の下に進め置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人も2人も申し受けて滝山か鉢形に置いておくだろうとのこと、建前論で仰せられました。
 ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。
 私のことは、ここに滞留して一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われてはいますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。私に帰るようにと、ご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお越し下されますように。また、篠窪治部のことは、新太郎殿へ直接申しています。これは一向に応答がありません。遠山左衛門尉から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。
 追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留し、することもありませんので、帰還するようご指示になり、ついには御前になります。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

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