雖誠乏少候、樒柑一箱并江川一荷進入候、御賞翫所希候、恐々謹言、

氏政(花押)

十一月廿九日

山内殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(上杉文書)

1569(永禄12)年に比定。

 些少ではありますが、蜜柑1箱と江川酒1荷をご進呈します。ご賞味いただければ幸いです。

Trackback

9 comments untill now

  1. 水野青鷺 @ 2010-05-25 18:06

    江川酒(えがわざけ)とは、400年も前から静岡県伊豆の国市韮山の、当時代官だった江川家の名前をとって命名された、全国に名が響くほどの銘酒のことだったのですね。初めて知りました。この一荷とは、何升ぐらいの事なのでしょうかね。飲んべえは、こんなところに拘ります。[てへっ/]

  2. マリコ・ポーロ @ 2010-05-25 21:46

    高村さま
    私も飲兵衛ゆえ?「一荷」が気になりました。
    韮山町史の江川酒のところに「相州足柄上郡旧千津嶋村民助左衛門文書」(いったいこれがなんだかサッパリ分かりませんが)の引用がありました。それは、江川酒の「大樽」を江川前で請け取って小田原まで運ぶように、という指示のものでした。他の何かの書状で、「一樽」というのがあったのも見たことがあるような気がします。
    「大樽」と「普通樽」があったのかな?謙信公に差し上げるのだから、そりゃあ「大樽」にしたのかな?一つの荷に、大樽は何樽のったのかな?伊豆の銘酒「江川酒」を、謙信公はやはり梅干をアテに召し上がったのでしょうかね。お礼の書状はあるのかしら。「一荷」から、また妄想が広がりますね。

  3. コメントありがとうございます。『数え方辞典』(小学館)によると、1荷は1人が運べる分量ということでした。樽だと天秤棒に担ぐので2樽が1荷に当たるそうです。1荷での樽の大きさは記載されていませんでしたが、1駄(馬1頭)の場合は3斗5升入りの樽が2樽(合計126リットル)と書かれていましたから、これと同じか、少ない分量だったと考えられます。ちなみに、蜜柑1箱の箱は昔あった木の蜜柑箱サイズではないかと思います(最近は全く見られなくなりましたが……)。

  4. 追記です。『角川歴史辞典』を見たところ、安藤升は京枡の1.2倍となるようです。御北条氏から贈られたとすると、2樽は151.2リットルとなります。結構飲み応えがありそうですね。[ウィンク/]

  5. マリコ・ポーロ様
    コメントありがとうございます。千津島への回送は1590(天正18)年3月25日で、羽柴氏来襲直前ですね。河村・足柄の兵士に飲ませようとしたのかも知れません。この書状では「樽は小田原から送る」と書いているようなので、大樽は時代劇などに出てくる巨大な木樽の原型だった可能性もあります。
    上杉からの礼状は残っていないような気がします。後北条本家の文書は、小田原開城時に全て処分されたようなので(本当に勿体ない話です)。氏邦は文書を残しているので、もしそっちであったらアップしますね。
    ※何だかコメントの表示位置が変でご迷惑をおかけしております。

  6. 水野青鷺 @ 2010-05-26 17:32

    えっと、わたしも少し調べましたが、一荷は、「てんびん棒の両端につけて、ひとりの肩に担える分量」:「大辞林 第二版」とありました。「2樽は151.2リットル」ということは、1樽では、4.2斗、つまり一般的な薦被りの四斗樽が二つで、これを天秤棒の片方に4.2斗、つまり23Kg位、両方で46Kgとなりますね。これでは一人でとても運べないと思われます。そうであれば、もしかしてこれは、角樽ではないでしょうか。一樽2.7リットル(1.5升)×2樽(一対)=3升、両方で5.4Kg程度の重さになります。
    蜜柑一箱と酒三升の贈り物だったのでしょうかね。[てへっ/]

  7. お調べいただき勉強になりました。なるほど、角樽というものがありましたね。今は殆ど見なくなりましたので、思い至りませんでした。ちなみに、蜜柑には「一合」という単位もあったようですが量数が把握できずにおります。一箱が「些少」だったので、恐らく蜜柑箱よりは量が多いとは思うのですが……。この時代は色々と不明な点がありますね[うーむ/]

  8. はじめまして。いつも興味深く読ませていただいております。
    いつもは読むだけなのですが私も酒飲みなので興味深い話題からついついコメントしてしまいました。
    さて、酒の量の話なのですが、三升というのは大酒飲みの上杉謙信に贈るにはちと寂しい量かと感じました。そこで七十一番職人歌合で酒の行商の場所をちらと見て確認したところ酒樽の大きさはかなり大きい。おそらく一つが一斗位はあるように思いました。明応八年の奈良で酒一升十四文、明応七年の米一升で十文。それなりの量をさばかないと利益が小さくて生活が苦しくなりますので、一度に売りに行く量は二斗位は事業規模として妥当かな。これくらいは運べたのだと思います。
    よって、酒を運ぶのに一荷=二斗くらいは普通だったのではないかと考えます。

  9.  コメントありがとうございます。贈答用酒の単位「荷」について改めて調べてみたのですが、『時代別国語辞典』を見たところますます疑問符がついてしまいました。第1義は皆さんお書きのように、天秤棒を使って一人が運べる量・2樽、となっていたのですが、第2義で「特に酒樽一つをいう」とありました……[ふむ/]
     この辺りはどこかで明確に記載された文書がないと判断はできないかも知れません。個人的には、天秤棒という当初の分量から逸脱しているような雰囲気がしています。