(三月)

同十八 井ノ口に逗留、長井殿御いせい無申計候、常覚院之御馳走、是又無申計候、城一段見事、

尾張国

同十九 岩倉ニ着、道六里也、

                      宿主 菅 四郎

 近比ミられる者にて候、路次中の物わらいニ仕候、長井殿より岩蔵之小田殿まて人をそへられ候、竹井之人之心へにて二宮方をそへらへ候、小田殿内、山内・前野・高田、両三人へたけを一すしつゝ遣し候、岩蔵より森山まておくられ、それより岩さきまて人を被付候、

同廿日、廿一日、廿二日ニ岩倉ヲ立、

同廿二 岩さきニ着、城下より五丁計行候て、ふし島と申在所へ行道六里、

                      宿主 井舞甚四郎則とい也、

     城主 庭ノ右近と申人、

同廿三 山中ニ付、道八里、岩崎より岡崎まて人をそへられ候、老人にてふしきの者ニて、おひを二すし出し候ヘハ、よくほり候と申、事外■■■ねり候て、代二百文とり候、岩崎の城主福島、するかより被越て被持候、やはきの川、しやうるりの古所見物、松一本有、

同廿四 しらすかニ着、道九里也、

 ひるのやすミ、吉田にて仕候、

(中略)

(四月)

同廿五 山中に着、道九里、宿は竹尾平左衛門、

 三河国内吉田役所、又代物のえりミして、よき代をハ皆々取候由ニて、とられ候、いろゝゝわひ事申候て返し候■、中々難儀にて候、

尾張国

同廿六 ならわニ着、道九里、

                       宿ハならわ十郎兵へ

 山中よりおかさきへこし、まヘハふし島へとおり候へ共、三河・岡崎取相にて、おかさきよりあふらさきへ行き、舟ニ乗候て大はまへ行、又船ニのり候、五十丁計乗、ならわニ着候、

同廿七 なこうニ着、船上九里、

 とこなへという所より、ふねニのり候、雨ふりと申、又かせ共ふき申候、皆々ふねニゑい申候、いまやゝゝと難きにて候つる、

い■国

同廿八 上つけニ着、道八里、

                       宿主 ■■大夫

→愛知県史 資料編10「参詣道中日記」(大村家文書)

1553(天文22)年に比定。

3月18日 美濃国井ノ口に逗留。長井殿のご威勢は表わせないほどでした。常覚院の奔走もまた、言い表せません。城は一段と見事でした。
3月19日 岩倉に到着。行程は6里。宿主は菅四郎。近頃よく見る者で、道中の物笑いになっていました。長井殿より岩倉の織田殿まで案内をつけてくれました。武井の心遣いで二宮さんを添えられました。織田殿の家臣、山内・前野・高田の3名へ竹を1筋ずつ献上しました。岩倉より守山まで送られ、その先の岩崎まで案内人をつけられました。
3月20日、21日を過ごし、22日に岩倉を出立。
3月22日 岩崎に到着。城下より5丁ばかり行って、藤島という在所へは6里。宿主は井舞甚四郎則といいました。城主は丹羽の右近という方。
3月23日 山中に到着。行程8里、岩崎より岡崎まで案内をつけられました。老人ですが不思議な人で、笈を2筋出したところ「よくほり候」と言い、ことのほか(欠字)ねって、代金200文をとりました。岩崎の城主は福島氏、駿河からやってきて城を持っています。矢作の川、浄瑠璃の古所を見物。松が一本あり。
3月24日 白須賀に到着。行程9里。昼の休みは吉田にて行ないました。
(中略)
4月25日 三河国山中に到着。行程9里。宿は竹尾平左衛門。三河国内の吉田役所は、通行税の銭をより分けて、いい銭を全て取ってしまうとのことで、取られました。色々と陳情して返してもらいました。なかなか難儀なことでした。
4月26日 尾張国成岩に到着。行程9里。宿は成岩十郎兵衛。山中より岡崎経由で、往路は藤島を通りましたが、三河・岡崎が紛争地となったので、岡崎から油崎へ行き、舟に乗って大浜へ行き、また船に乗って50丁ばかり乗って成岩に到着しました。
4月27日 長太に到着。船上で9里。常滑という場所から船に乗りました。雨が降り、また風も吹いていて、全員船酔いしていました。到着はまだかまだかと苦しみました。
4月28日 伊勢国上つけに到着。行程8里。宿主は(欠字)大夫。

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