百貫文 自分ニ被下知行、新田領之内、検地奉行前より、以下地可請取之、但可為鬮取、

弐拾四貫文 同心上下廿人扶持銭、於館林麦百六十四俵二斗、大藤長門守・森三河両人前より、可請取之、

五拾貫文 同心給、西庄来丙戌年貢より、倉賀野淡路守前より可請取之、

以上百七十四貫文

右、金山北曲輪在城就被仰付、被下候、然者、請取之役所之儀者不及沙汰、惣曲輪各申合、昼夜共大細事万端遣念、厳密ニ可走廻候、猶随忠信、可重恩賞者也、仍如件、

乙酉

(虎朱印)

天正十三年十一月九日

垪和伯耆守 奉之

宇津木下総守殿

→小田原市史「北条家虎朱印状」(大阪城天守閣所蔵宇津木文書)

100貫文 宇津木氏自身に下された知行。新田領の中から検地奉行から地所を受領するように。但し土地はくじ引きで決めること。
24貫文 同心の上下20人の扶持費用。館林にて麦164俵2斗を大藤長門守・森三河から受領するように。
50貫文 同心の給。西庄の来年丙戌年の年貢を当てる。倉賀野淡路守から受領するように。
以上174貫文。右は金山北曲輪に在勤する命令に伴って下されるものである。受領する地所のことはあれこれ揉めず、全ての曲輪が団結して昼夜問わずに大・小事全般に気を配り、厳しく奔走するべきでしょう。更に忠信によっては重ねて恩賞を下される。

拾人 鉄炮衆

此御扶持給夫銭

拾弐貫文    申八月ヨリ酉七月迄御扶持十二ヶ月分

拾三貫三百卅文 申歳秋夫銭

此外酉春夫銭除之

六十壱貫三百四十文 御給

已上 八十六貫六百七十文

此内

拾五貫文

拾たん  上紬

拾三貫文

拾たん  中紬

已上 弐拾八貫文

残而

五拾八貫六百七十文 都筑前より可出

以上

右、無相違可請取之者也、仍如件、

甲申

霜月十七日

(虎朱印)

宇津木下総守殿

→小田原市史「後北条家虎朱印状」(大阪城天守閣所蔵宇津木文書)

1584(天正12)年に比定。

鉄炮衆が10名。この給与費用として、12貫文(申年8月から酉年七月までの12ヶ月分)・13貫330文(申年秋の費用)、このほかに酉年春の費用は除外して61貫340文を計上。都合86貫670文となる。このうち、15貫文は上紬10反・13貫文は中紬10反、都合28貫文となる。残余の58貫670文は都筑から支給する。以上相違なく受け取るように。

御前田、自来戊辰歳、六年荒野ニ被定間、地下人等相集、如前ゝ有之而、田畠可令開発、宿中之義、諸役人不入ニ被仰付候、不可有横合者也、仍如件、

丁卯

霜月朔日

(翕邦把福朱印)

三山 奉之

大森越前守殿

長谷部兵庫助

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦朱印状」(町田愛二氏所蔵長谷部文書)

1567(永禄10)年に比定。

 御前田は来る戊辰年より6年間荒野となるので、一般庶民たちを集めて、以前のように田畠を開発するように。宿中のことは、諸々の役人に対して不入としてお定めいただいている。横合いからの異議は認めない。

「竹谷 大野」

苻川之郷一陽年来致隠田処、此度訴申間、被遂検地処、両人申上条明鏡也、然間両人ニ代官職被仰付候、并御領所之隠田申上為御褒美、今度増分定納廿九貫之内五貫文、両人ニ永被下候、猶郷中之様子御書出者別紙ニ有之、従来秋、如御法速可走廻旨、被仰出者也、仍如件、

天正五年丁丑 五月廿六日

(虎朱印)

      江雪 奉之

竹谷源□□

□□□□□

→小田原市史「後北条家虎朱印状」(大野俊雄所蔵竹谷文書)

 苻川郷で一両年にわたる隠田の件。この度訴えがあって検地してみたところ、両人が訴えた通りでした。このことから両人に代官職をお命じになりました。同時に、直轄領の隠田を摘発したご褒美として、今度の課税追加分29貫文のうち5貫文を両人に下されることとなりました。更に郷中の明細を別紙に書き出しています。来る秋より、御法に従って速やかに奔走するよう仰せがありました。

三波川谷・北谷之百姓等、早ゝ在所へ罷帰、可作毛候、横合非分之儀、不可有之者也、仍如件、

壬子

三月廿日

(虎朱印)

北谷百姓中

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(飯塚文書)

1552(天文21)年に比定。

 三波川谷・北谷の百姓は、早々に村へ帰り、耕作を行なうこと。横合いから無理をいうことは認めない。

御牢人之間、江城為御堪忍分、於品川之内、荒地拾貫文も五貫文も、御□用次第、百姓有談合、可被為開候、年貢之事者、上意御本意之間、可進之候、仍如件、

卯月廿七日

(虎朱印)

遠山 奉

土肥中務太輔殿

→小田原市史「後北条家虎朱印状写」(土肥家古文書)

1563(永禄6)年に比定。

 ご牢人の間、江戸城のご堪忍分として、品川の中で荒地10貫文でも5貫文でも可能なだけ百姓と打ち合わせて開発して下さい。年貢については、上意・ご本意であるので進上します。

西浦重洲百姓闕落書立

五左衛門  長岡ニ有之

助右衛門  田中ニ有之

藤三郎   東浦小山ニ有之

左衛門三郎 伊東ニ有之

左衛門九郎 四日町ニ有之

左衛門二郎 伊東ニ有之

與九郎   西郡柏山ニ有之

善九郎   長岡ニ有之

 以上八人

右、闕落之百姓、為国法間、彼在所領主・代官ニ相断、早ゝ可召帰、若兎角申者有之者、註交名重而可申上者也、仍如件、

丙寅

壬八月六日

(武栄朱印)

幸田與三 奉

山角四郎左衛門殿

伊東九郎三郎殿

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康朱印状」(土屋氏所蔵文書)

1566(永禄9)年に比定。

 西浦の重洲にて逃亡した百姓の一覧。

五左衛門  長岡にいる

助右衛門  田中にいる

藤三郎   東浦の小山にいる

左衛門三郎 伊東にいる

左衛門九郎 四日町にいる

左衛門二郎 伊東にいる

與九郎   相模国西郡の柏山にいる

善九郎   長岡にいる

 以上8名。右は逃亡した百姓である。国法によって取り締まるため、彼らがいる場所の領主・代官に連絡して早々に還住させるように。色々と申し立てる者がいるならば、名前を記載して再度提出すること。

 6月8日の今川氏真判物によると、岡部元信の率いる部隊は鳴海城を撤収し、その後刈谷城を攻撃して水野藤九郎を討ち取ったという。
1560年6月8日氏真判物
 ところが、氏真が同年9月1日に出した判物では刈谷攻落は記載されていない。
1560年9月1日氏真判物
 この9月の判物では、元信の父『玄忠』の遺領を巡って、元信とその弟が係争していることが書かれている。6月8日の記述では「事情があって……」とされていた所領没収は、どうやら相続争いだったと想起させる内容だ。6月8日の暫定認可を受けて9月のこの判物では正式に相続認可が降りるという流れになる。それにも関わらず、勲功としては鳴海守備よりも大きな刈谷攻落が記載されていない。氏真が失念したという可能性もあるが、岡部元信が抗議することは確実である。実は、彼の武勲へのこだわりには前例がある。
 1548(天文17)年3月19日に、今川方と織田方が三河国で会戦した小豆坂合戦が生起する。その感状を列挙してみる。
同年4月19日松井惣左衛門
同年7月1日朝比奈藤三郎
1552年8月25日岡部五郎左衛門尉
 明らかに、岡部元信(五郎兵衛尉)宛の感状が遅れている。この書状内には「此時之出立、筋馬鎧并猪立物也、因茲敵令褒美、於向後分国之武士、彼出立所令停止、若至于違乱之輩者」とあり、兜の前立てと馬鎧が似た武士がいて、元信の功績認定が紛糾したことが窺われる(「このことで敵に褒美をしてしまった」という文意が把握出来ないが、何らかの事情があったのだろう)。実に4年半遅れの感状となったが、元信はこれを勝ち取っている。
 このことから、刈谷攻落が事実であれば、この功績が氏真安堵状から抜け落ちるのを元信が容認するとは考えにくい。であるならば、6月8日に氏真は事実誤認をしたまま判物を送ったことになるだろう。事実誤認説を補強するものとして、6月13日付けの武田晴信書状がある。
1560年6月13日晴信書状
 この内容は6月8日の氏真判物と近いが、刈谷攻落には言及していない。つまり、6月8日の判物送付後、12日までの間に氏真は誤認に気づき、少なくとも13日には武田氏に通告したことになる。最もありそうなのが、12日までに岡部元信が駿府に到着し真相を報告したという展開だ。
 正規に発行された今川氏の判物・感状で、このような誤認識と混乱が生じるものだろうか。小豆坂での例は既に示したが、もう1点類例を挙げる。元信への判物の2年後になるが、1562(永禄5)年7月26日の嵩山中山城での合戦で、田嶋新左衛門が西郷新左衛門の子を生け捕りにする。それを良知氏被官の中谷清左衛門が取り逃がしてしまった。その後大原肥前守が「田嶋新左衛門が取り逃がした」と報告したために田嶋の功績は無効になっていたが、1563(永禄6)年3月1日付けの下記判物で訂正されている。
1563年3月1日関口氏経判物
 この例では、大原肥前守の報告を検証せずに当初の判断を下している。田嶋の訴えがあって初めて調査されている。小豆坂合戦の例と併せて考えると、少なくとも1548(天文17)年~1562(永禄5)年までの今川氏感状発行には事実認定において何らかの欠陥があったようだ。管見の限りではあるが、後北条氏の感状では誤発行が見られないことから、今川氏固有の状況かも知れない。
 上記推論をもって、以下の仮定を導けるだろう。

  1. 岡部元信が刈谷を攻落したと6月8日に今川氏真は認識していた。
  2. 6月13日の時点では武田晴信は刈谷攻落の件に触れていない。
  3. その後の功績記述に刈谷攻落がないこと、元信が功績にこだわった前例があることから、元信による刈谷攻落はなかった可能性が非常に強い。
  4. 何れにせよ、鳴海撤収直後の岡部が刈谷を攻落したことは、6月8日時点での今川氏真にとってはとても信憑性のある事柄だった。