読了して改めて思ったが、日本ではこの作品がディケンズの代表作になっているのが不思議だ。解説の中野好夫も書いているが、後期作品の割には『ご都合主義』に凝り固まっている感じ。マダム・ドファルジュの最期しかり、クランチャーの悔悟しかり、そしてドルトル・マネットの退行しかり。これが『荒涼館』だったら、グチャグチャのままさらに混迷させる力技も見せてくれただろうに……と思う。
ただ、カートンとお針子の静かなやり取りは読み応えがある。哀感と諦観が組み合わさって、身代わりとして死にゆく男と冤罪の少女が一対の偶像に昇華していく様子は圧巻。死刑執行の直前まで経験したドストエフスキーのような異様なリアリティは薄いものの、情景とストーリーを巧みに混ぜ込んでいる。ギロチンによる死刑執行に沸き立つ群衆からカートンとお針子を見ていたと思うと、あっという間に視点が切り替わって、二人だけの緊密な交感にフォーカスしたり。ペンが踊るように走っていて、このシーンは何度読んでも飽きることがない。もう少し大時代な筆致でなければ……と思ってしまうのだが、これは現代人の驕りかも知れない。