去己酉年山口内蔵令同意、依可抽忠節造意現形、於尾州数ヶ所知行捨置馳来、其以来無足奉公、甚以忠節之至也、既安城陣之刻、以阿部大蔵、兄三左衛門尉跡職之内百貫文地、雖可出置之由申、一円彼跡職之知行可請取之由令遅延云云、然者、任安城陣之刻約束之旨、佐々木郷内伊奈分・又太郎分・東浦分・中切分参ヶ壱但除松平彦九郎相拘之分、藤野柳原、百貫文之分所宛行之也、縦雖有及異儀輩、不能許容、可知行之、弥可励忠節之状如件、
天文弐拾年
八月二日
治部大輔(花押)
松平三蔵殿
→静岡県史「今川義元判物」
去る己酉年(1549(天文18)年)に山口内蔵を同意させ、忠節にぬきんでていることが判った。尾張国での領地数ヶ所を捨ててこちらに来て以来無償で奉公し、とても忠節の至りだった。安城での戦闘時、兄の三左衛門尉の相続地の内100貫文を与えられたものの、一円の相続が遅延していると阿部大蔵より聞いた。安城陣の際の約束の旨に任せ、佐々木郷の内伊奈分・又太郎分・東浦分・中切分1/3、但し松平彦九郎の所領は除く。藤野柳原。以上の100貫文を与える。たとえ異義を申し立てる者があっても許容しない。これを知行するように。いよいよ忠節に励むこと。