今川氏真文書にて、撤兵時の岡部五郎兵衛尉が水野藤九郎を討ち取ったことが記載されている。この人物は織田信長文書にも登場する。「当年自何方無到来候之処」とあることから、その年の9月15日になるまで、どこからも贈物がなかったことが判る。織田信長の文書は年次不明だが、周囲に無視されていた時期となると、弘治~永禄年間に近いかもしれない。彼は孤立する織田信長にも味方し、一貫して織田方であったこと可能性がある。
 水野藤九郎が、水野一族のどこに位置するかは不明。『寛政重修諸家譜』によると、1560(永禄3)年時水野家当主だった信元の兄弟に藤九郎は二人いる。

第一の藤九郎

信元の弟 信近
→千代松・藤四郎・藤九郎(母は某氏)
子孫千代松某の時に家が断絶したと記述されている。子供の千代松は恐らく下記の人物。
信政(忠高・元茂)
→藤四郎
実は藤九郎信近の息子で、母は佐治氏。信元の養子となる。
1575(天正3)年十二月二十七日、父と同じく殺される。
 ただし、信近のほうは息子が藤四郎を名乗り、本人も藤四郎を名乗ったとある。藤九郎は一時的な名乗りだったか、誤伝である可能性が生じる。
第二の藤九郎
信元の兄 近守
→藤九郎・和泉守
母は某氏。1556(弘治2)年三月二十日父に先立って死す。
信元と近守の父親は忠政となっている。
忠政
→初め妙茂(ただもと)
牛息丸・藤七郎・下野守・右衛門大夫。母は某氏。
刈谷・緒川・大高の城に拠点を持ち、その地を支配する。
1543(天文12)年七月十二日卒す。年五十一。
 ここで矛盾が生じる。近守は忠政より先に死んでいないのである。どちらかの没年が間違っているか、両者が父子ではなかったか、または父親より先に死んだという記述が違っているのか。
 そして、和泉守を名乗る水野氏は『宗長日記』にも出てくる。この和泉守は刈谷に住み、連歌師宗長が訪れる度に資金援助をしている風流人として描かれる。日記上に出てくる終見は1527(大永7)年だから、忠政が35歳の時分の話である。この他に出てくる水野氏は常滑にいる水野紀三郎のみ。刈谷を支配していたという忠政はこの時どうしていたのか不明だ。想像をたくましくするならば、下野守家(忠政・信元)が和泉守家(近守とその父)を支配し、信近を養子に送り込んで乗っ取ったのかも知れない。その際に信近は、藤四郎から藤九郎に名乗りを変えた可能性もある。
 何れにせよ、近守は1556(弘治2)年に死去しているので、1560(永禄3)年時に討ち死にしたのは、近守の父か信近のどちらかであろう。

参河国衣領之内ニ蔵分百参拾参貫文之替地之事

右、今度衣衆等彼地依出置之、為其替地同国和田郷・同吉田郷都合百三拾三貫文分也、但和田郷代方之内弐貫文余者、自余江出置之条除之、其外者吉田奉行人如相談、可令所務、因茲彼帳面等所加印判也、兼又於度々令忠節之間、彼替地之儀於三河国中令扶助畢、守此旨弥可励忠功之状如件、

永禄 庚申 年

十二月十一日

氏真

大村弥右兵衛殿

→静岡県史 資料編7「今川氏真判物写」(御家中諸士先祖書)

三河国挙母領のうちに蔵分とした133貫文の替地のこと。右のことは、今度挙母衆に拠出していた。その替地とするのは三河国和田郷と吉田郷での合計133貫文をとする。但し和田郷代方の内2貫文余りは他の者へ拠出しているので除外する。その他は吉田の奉行人に相談し統治するように。そのように、懸案の書類に押印した。度々の忠節を考慮して、あの替地の件は三河国を挙げて補助しているものである。この旨を守り、ますます忠功に励むように。

永禄三年五月八日

 宣旨

 治部大輔源義元

  宜任参河守

   蔵人頭

永禄三年五月八日 宣旨

 従五位下源氏実

 宜任治部大輔

   蔵人頭

  口宣二枚

 五月八日 右大弁

進上広橋大納言殿

今度依忠節、約束之旨可令扶助、在所之儀者、従年寄共可申届者也、仍如件、

五月廿二日

元康(御判形)

浅井六之助とのへ

→愛知県史 資料編11 『諸牒余録後編巻二九』

 今度の忠節によって、約束の通り所領を与える。本領のことは、年寄り(農場主か家老か不明)の申請に従うこととする。

この文書は取り扱い注意。愛知県史では1560(永禄3)年に比定されているが、『約束』という表現はこの時代の文書ではあまり見かけない。

禁制

三州碧海郡中島町

廬菴寺崇福寺境内

一 伐採山林竹木之事

一 陣取・放火事

一 殺生之事

一 諸役免除之事

一 可下馬之事

右之条々、於違犯之族者、可処厳科者也、

永禄三年 庚申 六月三日

元康(御判)

→ 愛知県史 資料編11 「松平元康禁制写(木札)」(岡崎市崇福寺文書)

 三河国碧海郡中島町、崇福寺境内にて。山林の竹や木を切ること、陣地にしたり放火したりすること、殺生を行なうこと、様々な役目を免除すること、馬から下りること。これらに違反したものは、厳しく罰することとする。

遠江国山名郡石野小野田村之事

右、今度福島彦次郎構逆心、各親類・同心以下令同意処、存代々奉公之忠信、最前馳参之条、甚以粉骨之至也、因茲当知行如前々不可有相違、併遠江国中紺掻役事、除近年朝比奈左京亮所務分宛行畢、但、於有闕所者、可令扶助、何任先判之旨永領掌訖、守此旨弥可抽忠節之条如件、

永禄三 庚申

八月三日

氏真 判

本間兵衛五郎殿

→静岡県史 資料編7「今川氏真判物写」(本間佐渡守季道家文書)

 今度福島彦次郎が反逆を企て、親類や部下が皆同意していたところ、代々奉公の忠心から馳せ参じて活躍をした。そのため、ここに本領を安堵する。併せて、遠江国の紺掻役のこと、近年朝比奈左京亮が得た所務は除外する。但し、空いた領地があれば給付する。いずれにしても先例に則って執行する。この旨を守っていよいよ勤務に励むように。

去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第候、然者左衛門佐殿、無比類御動、被思食御感候、就其被成御書候、此上之儀、御城之段、御油断有間敷候。尚以左衛門佐御事、日下者不聞得候、今度之儀者、眞是非無申事候。爰元之儀、涯分無油断被仰付候、可被心安候、境内之儀人質など事被仰付候者、御内儀可有之申候、恐々謹言

五月廿二日

三浦内匠助

 正俊 花押

松井山城守殿

  参御宿所

→豊明市史 「三浦正俊書状写」(土佐国蠧簡集残編六)

 先日19日、尾張国境で不慮の戦闘がありました。是非もないことです。その際左衛門佐殿は比類のない活躍をしたとのことで、(氏真は)感服しておられ、書状をお出しになりました。これからのことですが、城のことではご油断ないようお願いします。それにしても左衛門佐殿のこと、目下情報がありません。今度のことは、本当に是非もないことです。こちらのことは、油断ないようにと厳命を受けました。ご安心下さい。領内では人質を出すように指示されています。奥様がよろしいかと思います。

原題 邦題 略称 刊行年
Sketches by Boz ボズのスケッチ集 SB 1836
Pickwick Papers ピクウィック・ペイパーズ PP 1836-37
Oliver Twist オリバー・ツイスト OT 1837-39
Nicholas Nickleby ニコラス・ニクルビー NN 1838-39
The Old Curiosity Shop 骨董屋 OCS 1840-41
Barnaby Rudge バーナビー・ラッジ BR 1841
Martin Chuzzlewit マーチン・チャズルウィット MR 1843-44
Dombey and Son ドンビー父子 D&S 1846-48
David Copperfield デイビッド・コパーフィールド DC 1849-50
Break House 荒涼館 BH 1851-53
Hard Times ハード・タイムズ HT 1854
Little Dorrit リトル・ドリット LD 1855-57
Great Expectations 大いなる遺産 GE 1860-61
Our Mutual Friends われらの互いの友 OMF 1864-65
Mystery of Edwin Drood エドウィン・ドルードの謎 MED 1869-

於当国滑革弐拾五枚・薫皮弐拾五枚之事

右、来年可買分、如相定員数、只今為急用之条、無非分様可申付者也、仍如件、

永禄弐年

八月八日

大井掃部丞殿

→静岡県史 資料編7 「今川家朱印状」(七条文書)

 当国における、なめし革二十五枚と燻し皮二十五枚について。右のことは、来年購入分であるが、規定された数量を徴収する。現在急用であるので、異義なきよう申し付ける。

『今川勢発向』今川の人数当国へうち越、志摩とらむとて舟と

もうかへけるおり、人の御もとより歌たもふ返し二首

伊勢のうみやよる人も波の神風にふきかへされて舟そたよふ

いせのうみに身をししつめんするかなる富士の高根となけゝきをそつむ

→静岡県史 資料編7「年代和歌抄」