就太神宮造替御状殊御祓太麻并二種珎重候、随太刀一腰進之候、将又参州萱米之事、委曲関口刑部少輔可申候、
恐々謹言
八月十五日
義元御判
→静岡県史
太神宮建替えについての書状、特に御祓い大麻と2種は珍重しています。このことから太刀1腰を進上します。さて、三河の葺き替え用徴税については、詳しくは関口刑部少輔が申し上げるでしょう。
就太神宮造替御状殊御祓太麻并二種珎重候、随太刀一腰進之候、将又参州萱米之事、委曲関口刑部少輔可申候、
恐々謹言
八月十五日
義元御判
→静岡県史
太神宮建替えについての書状、特に御祓い大麻と2種は珍重しています。このことから太刀1腰を進上します。さて、三河の葺き替え用徴税については、詳しくは関口刑部少輔が申し上げるでしょう。
今川氏真文書によると、松井部隊は今川軍で撤退戦のプロのようなポジションだったことが判る。
駿東郡を舞台とした『河東一乱』が出だしに入っているが、これは宗信の父親の話かも知れない。この文書のあて先は宗信の後継者『八郎』となっているが、仮名しかないことから八郎は若年であることが窺われる。となると、今川義元相続時の戦闘である河東一乱に宗信自身が関与したとは考えにくい。
この文書で触れられている手柄については、松井部隊を広く指していると想定できるだろう。
この文書で明らかになったのは以下のことである。
ここで着目したいのは、撤退戦のベテランが全滅したのか。まして、今川軍最高司令官である義元を擁していながら何故守れなかったのかという点だ。ただしこの文書だけでは、義元戦死は読み取れない。
もう一点。松井氏が刈谷城に在城していたという記述も要注意だ。岡部五郎兵衛尉への文書では、刈谷城に水野藤九郎がいたと記述されている。1560(永禄3)年には、松井氏は刈谷城番ではなかったのか? 氏真の書き方では、特に判読できない。
御祝儀万々珍重之至候、弥国家繁営之基候、向尾州御進発、是又目出候、仍金襴一端・大方紙十帖進覧候、猶重而可申述候、穴賢々々、
南無阿弥陀仏、
九月五日
他阿弥陀仏
今河治部大輔殿
人々御中
→静岡県史 資料編7 (清浄光寺文書)
ご祝儀の品々はとても珍重しています。国家がますます繁栄する元手です。尾張に向かって出発されるそうで、これもまためでたいことです。よって、金襴を1反と大方紙を10帖お届けします。なお重ねて使者が申し上げます。
体光上人は、時宗のトップ。清浄光寺は、藤沢にある時宗総本山(別名遊行寺)。安城松平家(元康)が支配していた大浜称名寺は三河時宗の拠点。
「実報院 氏真」
於尾州不慮之儀出来、因茲遠路来書祝着候、爰元無異儀候、委細高井連惇可申候、
恐惶謹言
六月廿七日
氏真(花押)
実報院
→愛知県史 資料編11 「今川氏真書状」(熊野那智大社文書)
尾張国で不慮の事態が発生しました。遠路はるばる手紙を送ってくれてありがとうございます。異議はございません。詳しくは高井連惇が申し上げます。
豊受太神宮神主
早任先例、太神宮御葺萱料作所申分子細之事
右御萱料者、太神宮於天下異于他之条、自往古以勅命、正遷宮萱之国被定置者也、因茲去年夏自作所令注進之処、三州之儀雖為御合点、遠州之儀者、就浅間御造営無同心之由、神鑑 叡慮太不可然者歟、早於御裁許者、武運長久安全之御祈何事如之乎、仍所令啓達如件、以解、
永禄三年 五月 日
→愛知県史 資料編11 「伊勢外宮神主解状写」(松木文書)
先例にのっとって、太神宮の茅葺料金を申し付ける詳細について
右の茅葺料金、太神宮は他とは異なる存在である故に、古から天皇の命令で国家事業として遷宮(神社建替え)に行なうよう決められていたことである。ということで去年の夏から発注していたところ、三河国は了承したものの、遠江国は浅間神社(駿河一の宮)建築によって難しいとのこと。神や天皇の思し召しも及ばないものか。早く決裁が出れば、武運長久の祈りを捧げたい。
尚以御祓并山桃・尉(熨)斗五把送給之候、目出度令拝領、態斗御初尾三十疋令進覧候、尚■ニも可申入候、
今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候、可有御推量候、就其立願之儀、委細御使与三郎殿江申候、聊不可有相違候、恐々謹言、
信盛(御書判)
六月十日
福井勘右衛門尉殿
御返報
→織田信長文書の研究 「皇大神宮御師福井勘右衛門尉宛佐久間信盛書状」
※皇大神宮は伊勢神宮のうち内宮を指す。
お祓いと山桃、熨斗5把をお送りいただきまして、ありがたく拝領しました。少々ではありますが、初穂料として300文を進上いたします。
今度の合戦について早速お尋ねいただきましたが、義元が討ち死にしました。その軍勢も数え切れないほど討ち取っています。その様子は推量ください。願掛けのことは、お遣いの与三郎殿に詳細をお聞きください。少しの相違もないようにお願いします。
今川氏真による文書に、珍しい種類のものがある。
■田嶋氏への再安堵
■大村氏への再安堵
どちらも以下の要素を持つ。
『一所懸命』という言葉に表わされるように、武士にとって所領の保証は命懸けの最優先事項である。その証文を戦場に持ち込むのか。『戦国史研究 第35号』の「戦場に文書を持ち込むこと」(大石泰史)で述べられているように、かなりの危険性を持っているのではないかと思われる。
たとえば、自分が肌身離さず持っていたとしても、運悪く討ち死にしてしまえば、敵なり味方なりが証文を持ち去ってしまうだろう。何故沓掛城で紛失する羽目になったのか?
紛失後に氏真がわざわざ経緯まで書き記して再発行していることから、以下の推理が成り立つのではないか。
何のためにこのような仕掛けを試みたのか。三河との国境に存在する沓掛城の位置に鍵があるような気がする。この点を考慮しつつ今後の検証を行なうこととする。
去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、
十月廿三日
義元 判
菅沼久助殿
→豊明市史 「松平奥平家古文書写」
去る十九日、尾張国の大高城に兵員と食料を補給した際、作戦の先方として出動し、自ら比類なく活躍しました。特に、部下が負傷する程の戦いぶりは本当に素晴らしいもので感服しています。今後もますます忠節を尽くして下さい。
検証a01に引き続き、同様の内容が含まれる文書を検討しよう。
武田晴信からの書状には、以下の事柄が含まれる。晴信は今川氏の強力な同盟者で、氏真とは何重にも血縁関係を持っている。
ここで書かれているのは検証01とほぼ同じ内容だが、疑問に思える点が2つある。「甲斐に2~3年滞在していた」という辺りが、氏真が書いた「事情があって領地を没収していた」との記述と符合しそうだ。ただ確証がないので現時点では疑問点に留める。
氏真の書状との差異は、刈谷城の件が書かれていないこと。甲斐に情報が行く間に漏れたのかも知れないが、五郎兵衛尉の武功をしきりに持ち上げている割にはよく調べてないのではないか。この点は大きな疑問ではないが一応書き留めておく。
疑問のもう一つは、「氏真に讒言する者~」というくだり。実際、晴信は氏真を裏切るのだが、それは遥か先の話である。それとも、この時点で何か疑惑が発生していたのか……。この件も保留しておく。
『桶狭間の合戦』と世上呼ばれる戦闘を、まずは定義してみよう。通説は全て仮説として提示する。
この3条件は適合するのか、まずはこの今川氏真の文書から検討する。
文書から判ることを箇条書きすると……
ここには今川義元がどうなったかは書かれていない。だが、エリアの特定は出来たことと思う。鳴海・沓掛・大高は全て尾張東端に位置している。三河・尾張国境付近要図参照のこと。
また、水野藤九郎を策謀により殺したことで褒められている。「あまつさえ」という文面から、撤退作戦時に刈谷城を攻撃したものと思われる。普通、降伏による退去では戦闘状態の解除が条件として含まれるのだが……。この点は謎がありそうなので、現段階では保留する。
以上により、対戦相手・日時・場所のいずれも特定はできないが、今川方が戦闘を行なった形跡があることは判明した。