『桶狭間の合戦』と世上呼ばれる戦闘を、まずは定義してみよう。通説は全て仮説として提示する。
- 日時 1560(永禄3)年5月19日(旧暦)
- 場所 愛知県豊明市に存在する標高65mの「おけはざま山」付近
- 概要 織田信長と交戦した今川義元が敗戦し、戦死した
この3条件は適合するのか、まずはこの今川氏真の文書から検討する。
文書から判ることを箇条書きすると……
- 6月8日には戦闘は終了していた。
- 戦闘は尾張で行なわれた。
- 岡部五郎兵衛尉は鳴海城を守備していた。
- 鳴海城のほかに、今川方として沓掛城・大高城が戦闘に関連した。
- 沓掛と大高は守備に失敗した。
- 鳴海城は氏真からの撤収命令まで持ち応えた。
- 策謀によって刈谷城を落城させ水野藤九郎を殺した。
- 刈谷城攻撃も併せて、武勲は素晴らしいと氏真は絶賛。
- 過去に事情があって没収していた所領を、功績により返還。
ここには今川義元がどうなったかは書かれていない。だが、エリアの特定は出来たことと思う。鳴海・沓掛・大高は全て尾張東端に位置している。三河・尾張国境付近要図参照のこと。
また、水野藤九郎を策謀により殺したことで褒められている。「あまつさえ」という文面から、撤退作戦時に刈谷城を攻撃したものと思われる。普通、降伏による退去では戦闘状態の解除が条件として含まれるのだが……。この点は謎がありそうなので、現段階では保留する。
以上により、対戦相手・日時・場所のいずれも特定はできないが、今川方が戦闘を行なった形跡があることは判明した。