北条氏邦、大森越前守と長谷部兵庫助に、御前田村の再興を指示
御前田、自来戊辰歳、六年荒野ニ被定間、地下人等相集、如前ゝ有之而、田畠可令開発、宿中之義、諸役人不入ニ被仰付候、不可有横合者也、仍如件、 丁卯 霜月朔日 (翕邦把福朱印) 三山 奉之 大森越前守殿 長谷部兵庫助 →戦国遺 …
御前田、自来戊辰歳、六年荒野ニ被定間、地下人等相集、如前ゝ有之而、田畠可令開発、宿中之義、諸役人不入ニ被仰付候、不可有横合者也、仍如件、 丁卯 霜月朔日 (翕邦把福朱印) 三山 奉之 大森越前守殿 長谷部兵庫助 →戦国遺 …
「竹谷 大野」 苻川之郷一陽年来致隠田処、此度訴申間、被遂検地処、両人申上条明鏡也、然間両人ニ代官職被仰付候、并御領所之隠田申上為御褒美、今度増分定納廿九貫之内五貫文、両人ニ永被下候、猶郷中之様子御書出者別紙ニ有之、従来 …
三波川谷・北谷之百姓等、早ゝ在所へ罷帰、可作毛候、横合非分之儀、不可有之者也、仍如件、 壬子 三月廿日 (虎朱印) 北谷百姓中 →戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(飯塚文書) 1552(天文21)年に比定。 三波川 …
御牢人之間、江城為御堪忍分、於品川之内、荒地拾貫文も五貫文も、御□用次第、百姓有談合、可被為開候、年貢之事者、上意御本意之間、可進之候、仍如件、 亥 卯月廿七日 (虎朱印) 遠山 奉 土肥中務太輔殿 →小田原市史「後北条 …
西浦重洲百姓闕落書立 五左衛門 長岡ニ有之 助右衛門 田中ニ有之 藤三郎 東浦小山ニ有之 左衛門三郎 伊東ニ有之 左衛門九郎 四日町ニ有之 左衛門二郎 伊東ニ有之 與九郎 西郡柏山ニ有之 善九郎 長岡ニ有 …
一、家康は、岡崎の城へ楯籠り、御居城なり。 一、翌年四月上旬、三州梅ヶ坪の城へ御手遣り推し詰め、麦苗薙ぎせられ、然して、究竟の射手ども罷り出で、きびしく相支へ、足軽合戦にて、前野長兵衛討死侯。爰にて平井久右衛門よき矢 …
天文廿一年壬子五月十七日 一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かた …
一、鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり。東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つゞきなり。城より廿町隔て、たんげと云ふ古屋しきこれあるを御取出にかまへられ、 水野帯刀 山口ゑびの丞 …
1492(明応元)年 北条御所御遷化 北条御所(堀越公方足利政知)が死去。 1493(明応2)年 駿河国より伊豆へ打入也。 駿河国から伊豆国へ出撃した。 1494(明応3)年 三月十六日合戦ニハ。武田彦八郎殿負玉フ。大 …
同七年戊午八月伊豆ノ御所腹切玉ヘリ。伊勢早雲御敵ニテ。 →戦国史研究27号『堀越公方滅亡の再検討』家永遵嗣 1498(明応7)戊午年8月、伊豆の御所(足利茶々丸)が切腹された。伊勢早雲(宗瑞)と敵対されて。