今川義元、松井貞宗の在陣を慰労する
其地在陣昼夜辛労無是非候、時分柄雖可為迷惑候、両国安危此時候間、各被相談一途遂本意候者快然候、猶々如水魚互談合肝要候、委細岡部次郎衛門尉可申届候、恐々謹言、 閏六月朔日 義元(花押) 松井兵庫助殿 →静岡県史 資料編7「 …
其地在陣昼夜辛労無是非候、時分柄雖可為迷惑候、両国安危此時候間、各被相談一途遂本意候者快然候、猶々如水魚互談合肝要候、委細岡部次郎衛門尉可申届候、恐々謹言、 閏六月朔日 義元(花押) 松井兵庫助殿 →静岡県史 資料編7「 …
就源五郎方帰国、各進退之儀、雖有訴訟、永不可還附、殊於松井者、当家奉公之筋目、 定光寺殿判形明鏡也、遠江国入国以来、父山城入道粉骨之条、直加扶助之段、為各別之間、不可及異論、然上者、知行・代官所并同心以下、是又不可有相違 …
(印文「義元」) 今度伊豆江透山伏被預置之条、駿・遠両国山伏申付、無怠慢番等之事、逐次第可勤之、若於無沙汰之輩者、可加下知者也、仍如件、 天文十一 壬寅 九月四日 大内 安察使房 →静岡県史 資料編7「今川義元朱印状」( …
(印文「義元」) 遠州棚草紅林次郎左衛門・同名右京亮、数年過分令未進之間、雖遂催促、不許容之間、以公方人令催促之処、一向未進無之由企訴訟之条、遂裁断之上、令致年来之勘定処、両人前七拾貫余之未進明鏡也、然上者両人構虚言企訴 …
三浦左京亮知行仁田村之年貢員数、米弐百壱俵弐斗、代物弐貫文地之事 此外壱石壱斗一[二]升高尾江元政寄進之間、永除之也、 右、左京亮知行、数年依旱魃令困窮、借銭・借米為過分之間、彼知行五百弐貫拾文仁売渡、進退可続之由 …
御知行仁田村員数之事 合弐百拾九俵壱斗三升、 同弐貫文代物、此外ニ壱石壱斗弐升地高尾三浦左京亮殿御寄進、永代除之、 右、永代買徳申候、然上者、永御同心ニ参可走廻候、此上者、彼地一円ニ御綺有間敷候、為知行可致所務候、殊ニ御 …
七月七日治部当座 聖護院門跡御座也、内々東と和与御扱之由也、然間当国へ御下向之間、彼会へ入候也、河つらと詠けるを、河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉、 七夕霞 霞にもむせふはかりに七夕のあふ瀬をいそく天の …
右中弁正五位上同晴資『十六』 蔵人『三月廿七日転右中兼修理右宮城使』 去夏此依狂気下向駿河国、渡富士河没水中云々、後聞、依狂気令自害云々、 →静岡県史 資料編7「弁官補任」(天文二十年条) 右中弁正五位上、藤原晴資『十六 …
(3月) 今月十七日、氏輝死去[廿四日、止々]、同彦五郎同日遠行、 →静岡県史 資料編7「為和集」(宮内庁書陵部所蔵) 今月17日、氏輝死去。24日に止々。同じく彦五郎が同日遠行。 (3月) 十八日、例之建長・円覚之僧 …
御名字・御家督之儀、御相続之段被聞召候、尤珍重之由気色候、仍御字以御自筆被遣之旨、被仰出候、御面目至目出存候、恐々謹言、 五月三日 左衛門佐晴光 謹上 今川五郎殿 うら書 大館 →静岡県史 資料編7「大館晴光 …