今川義元、長期在陣の富士宮若を賞す
今度陣中人数、長々在陣粉骨無比類候、猶岡部太郎左衛門可申届候、恐々謹言、 六月九日 承芳(印判) 富士宮若殿 →静岡県史 資料編7「今川義元感状写」(内閣文庫所蔵駿府古文書) 1536(天文5)年に比定。 この度出陣の …
今度陣中人数、長々在陣粉骨無比類候、猶岡部太郎左衛門可申届候、恐々謹言、 六月九日 承芳(印判) 富士宮若殿 →静岡県史 資料編7「今川義元感状写」(内閣文庫所蔵駿府古文書) 1536(天文5)年に比定。 この度出陣の …
今月廿四、伊奈要害乗落候刻、酒井弥七同前ニ、於小口粉骨ニ神妙之至、無比類感悦候、尚酒井弥七可申候、恐々謹言、 五月廿七日 氏親(花押影) 灯明坊 →愛知県史 資料編10「今川氏親感状写」(大福寺文書「大福寺古案」) 今月 …
今月四日、於三州千両口大代官所、合鑓敵追入、蒙鑓疵矢疵三ヶ所之条、粉骨之至也、弥可抽忠節之状如件、 弘治二年 八月十三日 義元判 能勢甚三殿 →愛知県史 資料編10「今川義元感状写」(御系譜類記上中下) 今月4日、三河 …
去月廿四日当城江敵相働候之処、尽粉骨数多手負仕出、奥平市兵衛・松平彦左衛門其外五人討捕之段、感悦之至也、弥可抽忠忠功者也、仍如件、 弘治ニ 六月三日 義元 粟生将監殿 →愛知県史 資料編10「今川義元感状写」(三川古文書 …
今度於石瀬、無比類仕候、弥忠節肝用候、尚以高名無是非候、恐々謹言、 八月朔日 元康 御在判 筧平十郎とのへ →新編岡崎市史「松平元康感状写」(内閣文庫) この度石瀬において、比類なく従軍しました。ますますの忠節が肝要で …
去廿二日之夜、三州大塚之城以一身之籌策乗取之、殊被疵別而竭粉骨之旨、太以感悦也、弥可抽軍忠之状如件、 九月廿八日 上総介 書判 牧野八太夫殿 →愛知県史 資料編11「今川氏真感状写」(三川古文書) 1562(永禄5)年に …
去十五日衣城知行分麦毛薙捨之処、為御合力各出陣、一段馳走之由、誠本望存候、委曲重而可申入候、恐々謹言、 四月廿三日 義元書判 東条殿御人数中 →新編岡崎市史「今川義元感状写」(三川古文書) 戦国遺文では1550(天文19 …
去廿五日、於土狩原合戦、最前馳合頸一野口討捕之、神妙之至甚以感悦也、弥可抽軍忠之状如件、 九月廿八日 義元 大村弥三郎殿 →静岡県史「今川義元感状写」(御家中諸士先祖書) 去る25日、土狩原合戦において前線で戦い首級1 …
去十月三日東根小屋へ夜討有之時分、其方出合、取首二ツ、馬廻衆夜討者四人生捕被指置候、手柄之段不申及、誠神妙ニ存候、無油断弥ゝ用心可被致候、為以来一筆如此ニ候、仍如件、 辰ノ朱印在 氏政判 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北条 …
去年四月十一日牛窪岡崎衆相動刻、味方中無人数之処、自最前無比類、於風呂構令刀切之旨神妙也、弥可抽粉骨者也、仍如件、 永禄五 八月七日 氏真在判 稲垣平右衛門 →愛知県史 資料編11「今川氏真感状写」(牧野文書) 去る …