尚々御朱印ハ四国きりとりの御朱印ニ候、おもてむきハ、三吉養子ニなり候分ニ候、八月ハ寺にも為見舞、可被越分にて候、相のこる我等ハ当寺古仏と一所に相はて可申内性候、くわしく申候へく候へとも、いそき候まゝあわれ存命之中ニ申承度候、以外、

何哉御遷宮之儀付、安土へ御上之由承及候、はやゝゝ御下向候哉、御公事之儀如何候、無心許候、次此方三七様連々御望候四国へ、御朱印にて、当郡之名主百姓六十をさかひ、十五をさかひにて、悉御越候、諸牢人亀山おや子・千種方・阿野・草沢・野呂・北方萩原殿・栗原殿・桑名伊東・三之尾方・伊賀衆・甲賀衆七八百・さいか衆千許、大方注進之候、四国之儀も、大略公事にてめなり候由、三吉正かんかたより申来候、五月廿五日、上様之御目とりにて御越候、安土衆各御はなむけにて、上下人夫・馬迄、八月迄之兵粮出申候、一夜に大名ニ御成候、郡内ニ残候者とてハ、我等と寺沙弥迄にて候、是ハ武具不相調候て、御供不被申候、恐々謹言、

五月廿一日

正以(花押)

(上書)「(切封墨引)

  内宮 ■波殿 まいる御宿所

     神戸 慈円院 正以」

→証言 本能寺の変「慈円院正以書状」(神宮文庫所蔵)

1582(天正10)年に比定。

追:なおなお、ご朱印は四国切り取りのご朱印です。表向きは三好氏の養子になるということです。8月は寺に見舞いとして行かれるだろうとのことです。居残る私は当寺の古仏と一緒に果てる覚悟です。詳しく申し上げたいのですが、急いで存命のうちに申したいと思います。

 何かご遷宮のことについて、安土へ上られるとのことを聞きました。早々に下向なさるのでしょうか。知りたく存じます。『公事』のことは如何でしょうか。心もとなく思います。次いでこちらは三七様が常々希望していた四国へ、ご朱印を使って、この郡の名主・百姓で15~60歳を境にして全員連れて行かれます。諸牢人の亀山親子・千種方・阿野・草沢・野呂・北方萩原殿・栗原殿・桑名伊東・三之尾方・伊賀衆・甲賀衆700~800・雑賀衆1,000ばかり。大方は編成されました。四国のことは、大体『公事』として召集されたとのこと、三好咲岩方から言ってきました。5月25日、上様のお目通りでお越しになります。安土衆それぞれが餞別として、陣夫・馬に至るまで総員の兵糧を8月まで供給すると申し出ました。一夜にして大名となられまして、郡内に残る者は私と寺沙弥だけです。これは武具が用意できなかったのでお供できなかったのです。

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