雖未懸御目、伊勢早雲庵より為使者罷越候、尤御在城迄参、被申付子細、以口上可披露至覚語候処ニ、関方先々此方ニ相留候へ之由、堅被申候間、不能其儀候、仍駿州・頭州申合、田原弾正為合力被罷立候、然間、此度貴殿様別而申合、当国之時儀可然様ニ、御意可請心中ニ被存候、三州本意ニ罷也候ハゝ、乍恐涯分御奉公可仕候之由、色々被申候、関馬尉殿、早雲一家事ニ候間、入道無御等閑被存候ハゝ、関も別儀是有間敷候、猶口上之趣、具ニ関方より可被申候間、委曲可預御報条、筆開候、恐惶謹言、

九月廿七日

大井宗菊(花押)

謹上 小笠原左衛門佐殿 参御宿所

→愛知県史 資料編10「大井宗菊書状」(小笠原文書)

1506(永正3)年に比定。

 いまだにお目にかかっておりませんが、伊勢早雲庵より使者として参上いたします。在城中に参って、詳細を指示し、口頭で報告しようと覚悟を決めていたところ、関方より「まずはこちらに滞在させよ」との厳命があり、そのことは申せませんでした。駿河国・伊豆国が申し合わせて、田原弾正への援軍として出立します。このため、今回貴殿と特別に申し合わせ、当国の時宜に合うようにお考えを承る考えでおりました。三河国の統一がなされれば、恐れながら、精一杯ご奉公いたす由、色々と申しております。関右馬允殿は早雲の家族ですから、入道が等閑のないようにとの考えであれば、関も別儀はないでしょう。更に口頭で、関方より詳細を申し上げますので、詳しくはお知らせに預けることとし、筆を擱きます。

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