来調儀火急に付て、氏政より之使、一昨日夜に入来りつき候、様躰者、明後日十九小田原を可被打出分ニ候、市川之船橋をハ、高城請取、はやゝ最中かけ候、如此之上、少も無油断支度専一候、日限之事者、両日まへに、可被仰出候、其故者、氏政中山邊江着陣之上ニ、此方出馬之日限、不時に被申越候之間、前長ニ其地へも被仰出かたく候、爰元分別尤候、たゝゝゝ夜を継日、一三昧支度之儀此時候、将亦、先日かき残し候衆之書立、のほせ被申候、此内はとり者、去夏之陣ニおいて乗馬を失候、石毛孫次郎者、於野牧あやまちを仕由候、石毛五郎三郎・神保帯刀・岡野惣右衛門をハ、御留主ニ被指置候、此外之者共、如此被為組候、

一林紀八郎 一騎

 

 三谷とのもの助―

一あひる甚五郎 ― 一騎

 長沢源二郎  ―

 

 布瀬藤ゑもん ―

一向後七郎左衛門― 一騎

 はたの源二郎 ―

 鈴木與三郎  ―

 

神保帯刀ハ、野馬を見せられへきため、岡野惣衛門ハ御用をたさせられへきために、さしをかれ候、雖然、御長陣ニも候ハゝ、此両人をも、其外のこさせられ候仁をも、御陣へたてさせられへく候間、たゝいまより此ことハり肝要たるへく候、以上、

七月十七日

(千葉胤富花押)

海上蔵人殿

石毛大和入道殿

→神奈川県史「千葉胤富判物」(原文書)

 この度は火急の要請とのことで、氏政からの使者が一昨日の夜になって来ました。その内容は、明後日の19日に小田原から出撃するとのことでした。市川の船橋を高城氏が請け取り、早急に架けるということで、この状態ですから少しの油断もなく支度に専念すべきです。期日は両日前に仰せになります。何故なら、氏政が中山の近辺に着陣した上でこちらに出馬の日程をすぐ通達してくるので、『前長』はその地への通達が難しく、こちらの判断が大切で、ひたすら夜に日を継いで支度に集中するのはまさにこの時です。その一方、先日書いておいた部隊編成書を届けます。この内で『はとり』は、去る夏の陣で馬を失っています。石毛孫次郎は野牧で『あやまち』をしたそうです。石毛五郎三郎・神保帯刀・岡野惣右衛門は、留守部隊に控えさせます。この他の者たちはこのように組ませて下さい。
(計数部分省略)
 神保帯刀は野馬を視察するため、岡野惣衛門は御用を果たすために控えさせます。そうはいっても、長陣になった場合はこの2人とその他残された面々も陣に加えるようになりますので、今からこの段取りを行なっておくのが肝要でしょう。

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