前の記事では松田調儀の実態について俯瞰したが、各人物の年齢に関しては深く説明できなかった。このため、項を改めて考証してみたい。

新六郎政晴が憲秀の次男であることは勝頼の複数の文書によって明らかだ。

  1. 武田勝頼書状
    武田勝頼、曽禰河内守に、伊豆戸倉での松田新六郎援助を命ず
    「如顕先書候、今度松田新六郎忠節無比類候、併其肝煎故候」
    1581(天正9)年10月29日 年は比定

  2. 武田勝頼書状
    武田勝頼、上杉景勝に、新府城への転居前に伊豆出兵する旨を伝える
    「氏政家僕松田尾張守次男笠原新六郎」
    1581(天正9)年11月10日 年は比定

  3. 武田勝頼感状
    武田勝頼、小野沢五郎兵衛に、韮山での戦功を賞す
    「寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処」
    1581(天正9)年12月8日 年は比定

※3の文書から、政晴が上総介の官途を名乗っていた可能性がある。

松田家の仮名は「六郎」なので、「新六郎」と名乗っている点から見ても政晴が次男であることは確定事項と見てよい。

政晴の名前は、軍記類で「政尭」とあることから混同されているが、下記記録から政晴が正しい。

笠原政晴署判写
笠原政晴、伊豆国衙で署判を発す
1580(天正8)年7月3日

ただ、政晴が次男であるとはいえ、直秀の弟ではないように思う。偏諱から考えて、氏政の「政」をもらった政晴の方が元服は早かったはずだ。

さらに、政晴は早々に登場する一方、直秀は随分遅れて名を表わす。政晴の初出は1575(天正3)年3月2日。笠原家の当主が幼少のため9年間の陣代を氏政から命じられている。この時氏直は元服していないから、当然偏諱は氏政からのものだ。対する直秀は1588(天正16)年11月15日に、父憲秀と連署で売却文書に名を出すのが初見だ。13年も間がある。

このため、政晴には名の伝わらない兄がいて、その後早世。政晴は武田に寝返ったため家督を継げず、遅れて生まれてきた直秀が松田家後継者となったと解される。

ところが、名前には改名があるのと、文書初出は年齢と厳密な関係を伴わないというトラップがある。一族の松田康長は初出時に46歳、康郷は44歳という例がある。

憲秀も、娘(松田殿)が氏康の側室となって産んだとされる桂林院殿は1564(永禄7)年の生であることは確かなので、孫まで20歳平均でつないだとすると、

  • 桂林院殿 1564(永禄7)年
  • 松田殿  1544(天文13)年生?
  • 憲秀   1524(大永4)年生?~1590(天正18)年没(享年66歳?)

となる。初出の鶴岡八幡参詣が1558(永禄元)年で34歳。

ぼんやりした中で1つの試案ができた。憲秀の従兄弟たちの生年も列記してみる。

  • 氏繁 1536(天文5)年生 1558(永禄元)年初出・22歳
  • 康長 1537(天文6)年生 1583(天正11)年初出・46歳
  • 康郷 1540(天文9)年生 1584(天正12)年初出・44歳

文書の残存具合にも左右されるのだろうが、改めて初出からの年齢割り出しが当てにならないことが確認できた。ただ、これら父方・母方の従兄弟たちの生年分布と憲秀生年が大きく外れているのも気がかりだ。出産年齢を平均20歳から15歳に引き下げてみる。

  • 桂林院殿 1564(永禄7)年
  • 松田殿  1549(天文18)年生?
  • 憲秀   1534(天文3)年生?~1590(天正18)年没(享年56歳?)

となる。初出の鶴岡八幡参詣が1558(永禄元)年で24歳。

あくまで仮想年齢だが、こちらの方が収まりがよいと感じる。氏政が1538(天文7)年生まれだから、氏繁・康長・康郷も含めて同年代集団となり、最年長が憲秀という感じだ。

もう1人、微かな手がかりがあるのが政晴だ。

北条氏政判物
北条氏政、松田新六郎に笠原千松の陣代を命じる
「笠原千松幼少付而、陣代之事、其方ニ申付候、自当年乙亥歳、来癸未歳迄九ケ年立候者、経公儀千松に可相渡」
1575(天正3)年3月2日

天正3年時点で、幼少の千松に変わって笠原家の軍事指揮をとることになっている。通常陣代は一族の長老格が勤めるもので、実戦経験は必須である。このことから、政晴は少なくとも20歳以上で何度か実戦も経験していたと考えられる。仮に20歳として生年を逆算してみる。

  • 政晴 1555(天文24)年? (1590(天正18)年には35歳?)

となると、長男は松田殿(天文18年)~政晴(天文24年)の間に生まれていたことになる。この人物、全く文書に残されていない。身体的に問題があって元服もできずにいたか、既に亡くなっていたか。勝頼が「次男」と認識していた点については、勝頼正室が政晴姪の桂林院殿だから、既に長男が亡くなっていても「次男」とした身内的感覚もあるかも知れない。それ以上は判らない。

そして直秀だが、氏直偏諱を受けていることから、前項でも取り上げたように直長と同年か年下ということになる。直長は氏直偏諱の最長老ともいえるからだ。

  • 直長 1562(永禄5)年 1590(天正18)年・28歳初出

ただそうなると、前項の直長=弟説との整合が苦しくなる。ここは今後の課題としたい。

検討可能な異説

政晴の後身が直秀と考えると、憲秀跡取りが実質1人しかおらず、ほとぼりが冷めたところで名乗りを変えさせて再登場させたと考えられる。陣代赴任を9年にきっちり限定していたこととも辻褄が合う。8歳年下の直長が「弟」と受け取られたことも符合する。

もう1つ、何らかの理由で長男の元服が30歳以上になったという可能性もある。実例がないので何ともいえないが、30歳を過ぎて正常化し、直秀と名乗った。このパターンだと、直秀の弟である政晴が密告したことになって収まりがよい。

また、後北条氏の後で仕えた前田家で直秀は「四郎左衛門」の仮名を名乗っている。官途である左馬助を捨てたものと思われる。直秀の仮名が松田家の「六郎」でない点は重要だ。実は後北条家にも松田四郎右衛門尉という似た名前の人物がいる。念のため事蹟を掲げておく(参考:四郎右衛門尉は、所領役帳に記載があり1582(天正10)年8月12日に死去した山角四郎右衛門もいる)。

  • 1578(天正6)年1月18日 氏政から義氏への年頭挨拶使者となる
  • 1581(天正9)年5月3日 氏照から来住野氏へ、氏直へ感状を斡旋すると約束した書状の奉者となる

憲秀には新次郎康隆という弟がいたとされるが、1536(天文5)年に鶴岡八幡造営に参加していることから年次が早過ぎ、憲秀というより盛秀の弟の可能性の方が高いように思う。

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