北条氏直の出した、松田直秀宛ての書状が疑問点の始まりだった。これは1590(天正18)年6月、炎暑の小田原城での出来事……。既に羽柴方の大軍に攻囲され、分国内の支城も次々に陥落していた状況である。陸奥の伊達政宗も恭順し、籠城している後北条方は、日本全土を敵に回して孤立していた。

通説では、松田憲秀とその長男の政晴が「これでは勝てない」と敵を城内に引き入れる計画を立て、羽柴秀吉から伊豆・相模をもらう約束を取り付けたという。実行の直前で、政晴の弟である直秀が氏政・氏直に報告し、憲秀・政晴は捕縛され事なきを得たとする。

これまで私も疑問は持っていなかったが、一つの書状を見て確信が持てなくなった。この書状は、父と兄の悪事を暴いた直秀を、氏直が賞したものだという。

北条氏直、松田直秀の忠信を賞す

この度の忠信、本当に古今ないことです。内容は紙に書かれません。本意を達したら、どの国でも(知行を)お渡しします。氏直一代において、この厚志は忘れません。時間が経とうとも些細なことでも、他とは異なり親しくします。

実に模糊とした内容である。たとえば今川家であれば、こんな曖昧な言い方はしていない。

「今度福島彦次郎構逆心、各親類・同心以下令同意処、存代々奉公之忠信、最前馳参之条、甚以粉骨之至也」

たとえばこのように、正々堂々と裏切り行為の摘発を褒めるのが普通だ。

また、「内容は紙に書かれません」の部分の原文も少し違和感がある。通常であれば「難尽紙面候」と書くものを「紙面不被述候」としている。「書きつくせない」ではなく、「書くに書けない」という意味が込められているようだ。

何か事情があるに違いないと、詳しく調べてみた。まず小田原合戦についての時系列を整理。

 3月29日 山中陥落(グレゴリオ暦5月3日)
 4月06日 秀吉が早雲寺に着陣
 4月17日 山中で戦死した松田康長の跡目を嫡男直長が継ぐ
 4月20日 松井田開城
 4月23日 下田開城
○4月26日 氏直が木呂子氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
○4月29日 氏直が上田氏に、戦勝後は駿河・甲斐の知行を与えると約束
 5月23日 氏直病気のため氏政が執務代行?
 5月24日 岩槻開城
 5月27日 堀秀政没
○6月01日 氏直が林氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
 6月05日 伊達政宗が秀吉に出仕
●6月08日 伊豆・相模を安堵する秀吉の意向が某に発せられる
●       岡田利世が6日~7日に氏直と面会したと小幡信定に伝える
●6月12日 氏直が降伏交渉の存在を小幡信定に告げる
?       瑞渓院殿と鳳翔院殿が死去
 6月14日 鉢形開城
●6月16日 松田の内応が弟の返り忠で手違いとなり、松田成敗と徳川方に伝わる
?6月17日 氏直が松田左馬助に、今度の忠信は生涯忘れないと伝える
○6月20日 氏直が木呂子氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
●       城中で内応があるとして徳川方が臨戦体制(国替は近日との話)
 6月22日 篠曲輪合戦(グレゴリオ暦7月23日)
 6月23日 八王子陥落
 6月24日 津久井開城
 6月26日 秀吉が石垣山に着陣、小田原城へ一斉射撃
 6月27日 徳川方で中間の逃亡が始まる
●7月01日 氏直が小幡信定に、本領安堵での降伏を了承したと告げる
 7月04日 韮山開城
●7月05日 氏直・氏房が出城
 7月10日 氏政が出城(グレゴリオ暦8月09日)

●は開城に向けた動き・○は徹底抗戦に向けた動き・?は現段階でどちらともとれるもの

こうしてみると、氏直が徹底抗戦から開城に心変わりしている様子が判る。このことは以前に遠過ぎる石垣山 その4 で言及していたが、更に細かく見ていこう。

4月下旬の段階から、氏直はいくつかの空手形ともいうべき督戦状を出している。上田・木呂子・林の各氏に宛てたものが残されているが、実際にはかなり広範囲に発給していたのだろう。これらの督戦状は紋切り型だが、総じて駿河・上野・甲斐の組み合わせで新知行を約束している。

その後6月6日に、氏直は羽柴方の岡田利世と単独面談している。

「六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候」

恐らくは開城への交渉だったと思われる。そうなると、その2日後の日付がある安堵状がこの交渉と関連すると考えるのは自明だろう。

「然ハ伊豆相摸、永代可被扶助旨候」

この文書は差出人と宛名が失われており、従来は羽柴秀吉から松田憲秀に宛てられたものと解釈されてきた。しかし、家臣筆頭とはいえ2カ国を得るような約束を憲秀が得られるものだろうか。ちょうどこの頃の氏直は開城に向けて邁進している点からも、これは氏直が得たお墨付きだと考えるのが自然だろう。

さらに、のちの7月1日に氏直が小幡信定に伝えた本領安堵の確言から考えても、宛て先は氏直で間違いない。

「殊本国之儀妄ニ雖成来候、既出仕之上者、先規不可有異儀由候」

しかし、この開城交渉は内々で行なわれたため難航する。岡田利世が「氏直様御壱人」としか話していなかったと証言しているように、その席に氏政・氏照らはいなかった。だからといって厳密に秘した訳でもなく、氏直は信定に開城のことを縷々告げているし、「扱之取沙汰ニ付而、諸役所油断之由候」→「開城の噂について色々な持ち場が油断しているそうだ」と氏直自身が12日に注意している程に情報は漏れていた。

その12日に城内で氏政の母と妻が亡くなる事件が発生する。同日ということから自害したと考えられているが、恐らく彼女たちは氏直の近くにいてその動きを察知し、諫死したのではないか。ここに来て、城内各所にいた氏政・氏照らは異変に気づいた。彼らは氏直の近辺を調べ上げたに違いない。そうした中、16日に松田の弟の証言によって状況が判明し、告発された松田は拘束される(岡田利世を城内に手引きした垪和善七郎(豊繁)も拘束・もしくは殺害されたと思われる)。

この時の様子を城外から見たのが家忠日記の6月16日項である。

「城中ニ松田調儀候へ共、弟返忠候てちかい候、松田成敗ニあい候由候」

「松田成敗」とあるが、これが即座に死刑を表わすことは限らず、『処罰』を指すケースが多い。松田は存命だったものの閉じ込められた。直前までの氏直の動きを見る限り、松田が単独で動いていたとは考えにくく、氏直の指示で開城工作を行なっていたと考えた方が自然だ。

では「松田」とは誰か? まず羽柴方にとっての「松田」とは憲秀・直秀のいずれかを指す。北条家人数覚書 には、「松田尾張入道 同左馬亮 父子 千五百騎」とある。

父の尾張入道憲秀が「松田」だった場合

弟ではなく息子に告発されたことになる。また、直秀への書状も、冒頭に書いたように氏直から明確に忠節を賞されたものになるはずだ。通説ではここを回避するため、内応の主役を直秀の兄政晴にして、父・兄への不忠を直秀が憚ったような表現をしている。しかし政晴は天正18年時の実在を史料上確認できないし、返り忠を憚るような風習は戦国期には見られない。

息子の左馬助直秀が「松田」だった場合

 告発者とされている直秀だが、氏直と連動していたとすれば、告発された側に立った方が判りやすい。事情を知る氏直があの奇妙な書状を送ったと考えると、曖昧な文章にも合点がいく。氏直が直秀に宛てた書状を改めて見てみると、捨石となって軟禁されていた直秀に「事情は判っている。恩に着る」と告げたかったように解釈が導き出される。威勢のいい新知行の約束もなく、むしろ「どのような身の上になっても便宜を図りたい」という気弱な囁きしか窺えない。告発した弟については項を改めて検討するが、対象者がいない訳ではない。

やはり、内応に加担した「松田」は直秀の方が可能性が高い。

家忠日記では、20日に城内調儀があるとして雨の中終夜待機している様子が描かれている。松田調儀の決行日が20日だったため、不発に終わったと判っていながら念のため臨戦体勢を敷いたものと思われる。

開城のための手駒を失った氏直は、この20日になって木呂子氏に例の督戦状を出しているが、これは城内首脳を欺く意図があったように思う。

氏直自身は側近に罪を負わせて自由な身柄を確保した。だからこそ、その後の7月1日に氏直は小幡信定に開城の準備が出来たと告げることができた。さらに5日には城を出て織田信雄の陣所に弟の氏房と駆け込んだ。

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