何だか最近堅苦しいことばかり綴っているので、たまには与太な話を。

黒田氏版の後北条年表で、北条氏政が隠居して『載流斎』を名乗ったと書かれていた。これは明らかな誤記で、正しくは『截流斎』である。『載流斎』にはルビで「さいりゅうさい」と書かれていたので、ルビをふった人物は余り事情に詳しくなかったのかも知れない。

ちなみに『截流斎』は禅語で、「せつるさい」と読むのが正しいようだ。Webで検索したところ、原典と思われる言葉が出てきた。

一句截流、万機寝削 (いっくせつる、ばんきしんさく)

 「一つの言葉で流れが断たれ、全てのものが消滅してしまった」という意味らしい。隠居によって諸々の流れをリセットしたいという願いが感じられる。

 氏政の父である氏康は1559(永禄2)年に隠居したのち、『太清軒』を名乗る。「太清」は道教で神格化された道子のことで、「太清大帝」と呼ばれる。また、孟浩然の詩『臨洞庭』では天空の最も高い部分を指して「太清」と言っている。

氏康の隠居が飢饉による経済破綻だったことは『戦国大名の危機管理』(黒田基樹)で指摘されており、氏康としては不本意だったのかも知れない。そのため、隠居後も君臨するために『太清軒』を名乗ったようにも見える(隠居後の印判に「武栄」という文言を使っていることからも、その可能性は高い)。

そうした父の介入を受け、なおかつその介入が最も際立った武田氏の駿河乱入事件で正妻黄梅院を失った氏政からすると、息子氏直へ家督を譲る際、隠居として介入はしないという決意から『截流斎』を号したのではないかと思った。また、織田氏に帰属する新時代に突入し、これまでの実力主義から時代が大きく転換するだろうと予測して、流れを截りたいと願ったのもあるだろう。

そう思って氏規の書状写を読むと「御隠居様又隠居」の意味合いが変わってくる。諸書ではこれを「羽柴方への服属を嫌った氏政が引き籠って抵抗した」としているが、私にはどうも逆の印象があるのだ(氏政は氏規上洛に尽力している。その一方で、天正壬午の乱で真田氏に意趣を含んだ氏直の方が沼田問題に妙に拘泥している)。

氏直は、小田原落城後に『見性斎』を名乗る。これは禅語の「直指人心、見性成仏」から来たものだと思われ、物事の本質を見極めて、自己のうちに仏をなすというような意味らしい。どうも他人に振り回されたことを反省しているような感じがする。

余談だが、古文書をずっと追っていて「真性のお人好し」としか思えない氏真の斎号が面白い。遂に武将としての望みすら捨てて京に暮らしたときに『仙巖斎』と号す。自虐の笑いを誘う号かも知れないが、何とも人を食った名前。

廿六日之一札、同申刻到来候、垪和かたへ被申越筋目、尤ニ存候、就中、御煩故今日無参府候哉、如露先書、三郎送衆物主間、無日数候条、此方ヘ御越御無用候、委細進藤口上ニ可申候、恐々謹言、

三月廿六日

氏政(花押)

源三殿

→小田原市史951「北条氏政書状」(根津嘉一郎氏所蔵文書)

1569(永禄12)年に比定。

26日の書状が同日申刻(16時頃)到着しました。垪和の方へお伝えになった筋目はもっともなことです。とりわけ、ご病気のために今日は参府がないのでしょうか。先の書状で書いたように、三郎を送る衆の物主で日数がありませんから、こちらへのお越しは無用です。詳細は進藤が口頭で申すでしょう。