この文書の年次比定は従来永禄4年とされている。「酉」とあるから自ずと12年おきに限定されるからだ。「禄寿応隠」の虎印判初見は1518(永正15)年と言われるから、本文書の上限は永正10年には遡れるだろう。下限は後北条氏滅亡前の天正13年となる。

  • 永正10年(癸酉)
  • 大永5年(乙酉)
  • 天文6年(丁酉)
  • 天文18年(己酉)
  • 永禄4年(辛酉)
  • 天正元年(癸酉)
  • 天正13年(乙酉)

天文18年をまず考えてみる。この段階では新田横瀬氏・足利長尾氏は山内上杉方であるから、人質を後北条氏に送ったとは考えにくい。同様の理由で、上杉憲政が上野国にいた天文18年以前は対象外となる。

引き続き消去法で考えていく。永禄4年は、ちょうど越後勢の侵攻と合っている。人質を伊豆三島に退避させる観点からは問題ない。ただ、関東幕注文に横瀬・足利両氏は名を連ねている。天文末年から永禄3年までの間で後北条氏が人質を取るまでの支配透徹をこなせたかが問題になるだろう。永禄4年説は保留としておこう。

天正元年以降。こちらは、奉者の大草左近大夫(康盛)が、氏康没後に当主側近から北条宗哲家臣に変わっているため、除外される。

後は永禄4年説の留保事項をクリアすれば比定は完了する。ところがこれが意外に難しい。

長尾景虎が上野国に駐屯を始めた永禄3年9月、北条氏政が浦野氏に人質提出を求めた書状がある。浦野氏も関東幕注文に名前があるから、横瀬・足利両氏も同様に氏政から人質提出を求められていた可能性が高い。しかし、上野国衆が実際に人質を出したかは微妙だ。大戸の浦野氏は近隣の倉賀野に人質を出すよう依頼されている。来襲直前になって「実子を倉賀野へ」と依頼しているのだから、それ以前には人質をとれていないということだ。さらに、「川越へ」とすら言えていない。利根川以南へ出せという高圧的な言辞は使えなかったのだろう。

また、永禄4年説では、直前まで小田原を攻囲されていた事から人質を安全な三島に移送したとされる。だが、上で考えたように、小田原に「新田証人」がいた可能性は低い。

逆に、小田原から人質がいなくなるデメリットは大きいだろう。小田原城が安全ではないという宣言になるし、人質引き渡しによる交渉を小田原で行なえなくなる。退嬰的で不可解な政治判断ではないか。永禄4年説もこうなると適合性が低い。

ここで天正13年を検討してみると、実は自然な流れである事に気付く。まず、前年末より北条氏照が利根川を渡って新田と館林に侵攻している。1月4日の氏照書状では両所とも降伏して接収完了しており、11日には進軍してきた氏直が館林城主の長尾顕長を接見。氏直は2月13日以前に小田原へ戻る。この時連れて来た人質が3月7日に三島へ移動。この時の由良・長尾氏は完全降伏であるから人質を強制的に移送するのも可能だ。ちなみに、人質の正体は国繁と顕長兄弟の母妙印尼と、その従者だったのではないかと推測している。

更に、当時後北条氏は徳川氏と同盟しており、三島はその国境に当たる。羽柴氏は両氏共通の敵国であり、佐野氏を介して羽柴方となった新田・館林の由良国繁と長尾顕長もまた敵であった。氏直からすれば、両者からの人質を豆駿国境に置く事は、徳川氏と共有する人質だというアピールにもなり、政治的な利点があったように思える。

天正13年説のネックは1点。この文書の奉者を大草康盛とするなら、康盛は既に丹後守となって北条宗哲家臣になっていることだ。しかし、この大草左近大夫を康盛ではなく、残存文書が1通しかないもう1人の大草左近大夫(康盛の後継者)だと考えるなら、天正13年の方が比定として妥当であると考えられる。

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