1590(天正18)年5月16日

十六日(中略)

一小太郎東国人ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云ゝ、一段城堅固、万ゝノ猛勢取巻、城ノ内五里四方ニ人勢六万在之申ト、永ゝ敷見ヘ了ト、人馬多ク死タル、道ノクサキ事無限云ゝ、

1590(天正18)年7月26日

廿六日(中略)

一小田原ノ様ムサゝゝト落居、氏直ハ家康ヘカケ入、先無別儀、父ノ氏正・弟奥州ノ守ハ生害、則盆以前ニ首二ツ京ヘ上了、ニセ物ノ様ニ申、今度猿楽衆上テ必定ゝゝ云ゝ、関白殿只人ニ非ス、ムサゝゝト天道ニテ落居ト聞ヘ了、頓テ御馬被入トテ、郡山ノ正二位大納言殿昨夕在京了、扨日本国六十余州嶋ゝ迄一円御存分ニ帰了、不思議ゝゝゝノ事也、高麗南蛮ヨリモ御礼ノ使罷越、京堺ニ逗留了、ゝ妙希代ゝゝ、

→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「多聞院日記」

 5月16日。一、小太郎が東国の人を見回って帰ってきた。昨夕帰ったという。一段と城が堅固。数万の猛烈な軍が取り囲み、城の中5里四方に6万の軍勢がいるようで、これは長期戦になると。人馬が多く死んでいて、道が臭いこと限りなかったという。

 7月26日。一、小田原の様子、むざむざと落城。氏直は家康の元に駆け入り、まずは無事だった。父の氏政とその弟陸奥守(氏照)は自害。そして盆以前に首級2つが京へ上った。贋物のように言われていたが、この度猿楽衆が上って「間違いない」と確証したという。関白殿はただの人ではない。むざむざと天道にて落城と聞いた。すぐに帰京なさるとのことで、郡山の大納言(秀長)殿は昨夕から在京。さても日本国60余州の島々まで一円の支配をなしてお帰りだ。不思議不思議のことだ。高麗・南蛮からも表敬の使者が来て京・堺に逗留している。奇妙で珍しいことだ。

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