余りに考証がひどい小説を読んだので、記録しておこうと思う。本来小説は文学として表現されているもので、厳密な史料批判を行なうべき対象ではない。それは承知しているものの、今回取り上げる『空白の桶狭間』(加藤廣著・新潮文庫)では、カバー裏紹介文に
歴史の空白から埋もれた真実を炙り出す。
とあるため、余り歴史に詳しくない読者が、そこに書かれたことがきちんと史料考証していると勘違いする危険がある。そこで、ささやかながら警鐘の意味で懸念点を書き出してみる。
70ページ 「御油から姫街道を……」
→『姫街道』という名称は近世末からでこの時代は称されていないのではないか。別箇所でも気軽に『東海道』と書いているが、近世東海道が永禄年間に同じ場所を通っていないケースもある。
74~75ページ 「義元にとって心強いのは、追放劇で信虎の側に立った家臣が晴信の復讐を恐れて駿河へどっと流れ込んできたことである」
→具体的に誰を指しているか不明。同時代史料は一通り見ているが、そのような人物は記憶にない。また、同書185ページでは「今川の保護を受けている者は武田信虎を除けば剛の者は一人もいなかった」としており矛盾している。
77ページ 「僧侶としての修行が長過ぎた結果、義元は極端な短足だった。俗世に戻ってからは、美食のためこんどは太り過ぎた」
→僧侶は長期間修行すると足が短くなるということか。俗説にしても聞いたことがない。今川義元の本陣に輿があったという『信長公記』の記述から敷衍した俗説『足が短くて太っていたため乗馬不能だった』から着想したように思うが、この奇説を開陳する意図が判らない。
114ページ (今川義元が乗馬不能と聞いた織田信長の台詞)「知らいでか。元康(松平)から昔聞いたことがある」
→松平元康が、駿府に来る前に尾張で人質だったという俗説を取り込んだのだと思うが、駿府に移った後も元康は信長と頻繁に交流していたということか。だとしても、主君の恥を元康が伝えるのかという疑問があるし、そういう軽薄な知己を信長が軽々に信じるのかという疑問もまたある。
184ページ (今川義元が、氏真を信長と比較して独白する)「それに引きかえ我が息子は、まだ部屋住み」
→氏真は1556(弘治2)年頃から家督を継承しており、永禄に入ると様々な書状・判物を発給し始めている。父を失い競合同族が多い信長と、父が健在で競合相手もいない氏真では圧倒的に氏真有利にしか思えない。そもそも『部屋住み』という言葉自体が近世のものではないか。
189ページ 「索敵部隊は氏真に報告した」
→義元の尾張出陣に同行して氏真も出馬したとしている。通例だと氏真は駿府にいたという前提だが、このような観方も可能なのかと気づいた。少し興味深いので、この件は別エントリとして後日検討したい。
195ページ 「次いで鷲津砦は織田秀敏以下三百五十。これも今川勢の朝比奈泰能の手によって、軽くひねられた」
→1560(永禄3)年当時、既に泰能は亡くなっていた。もし活躍したとするなら息子の泰朝である。これは近世軍記の類が誤記したものを未だに引きずっているもの。『鳴海原合戦(桶狭間合戦)』を取り上げた諸書で何度も取り上げているのだが、本書のような漏れがあるとまた『朝比奈泰能の亡霊』が延命してしまう(今川氏を調べるとよく判るが、泰能が高齢を押して出陣したのか、家督を継いで間もない泰朝が張り切って出張ったのかで、ここの解釈はかなり異なる。信長の側からばかり『桶狭間』を語るから、いつまで経ってもこの勘違いが抜けないように思う)。
221ページ (岡崎城の説明の後)「桶狭間山の異変を聞くと、城代ら今川駐留軍は、あたふたと帰国してしまったのである」
→朝比奈親徳書状によると、彼は8月まで三河に残って転戦している。また、松平元康が翌年逆心した際、人質ごと岡崎を奪われたと氏真が記していることから、今川方が岡崎を放棄した訳ではない。また、合戦当日の5月19日に元康が岡崎城主に戻ったと書いているのも気になる。近世軍記類ですら「一旦大樹寺に入って様子を見た」と記しているのに対して、本書は余りに杜撰だ。
245ページ 「「相伴衆」とは、室町幕府が譜代諸家のために設けた資格で、将軍の外出の時に相手として伴をする役である。足利将軍義輝が、父義元の恩義に報いるために贈った憐憫の肩書きであろう。実体も実権もない。現実の今川氏真は、すっかり部下に見放された。今川領だった駿河、遠江は、東の北条、北の武田、西の松平(徳川)に、いいように食い物にされ、早々に実体を失っていった。さらに異説もある。若い頃は、京の四条河原で乞食をしていたとの話である」
→相伴衆は将軍の外出・宴席に随伴できる資格のようなものであって、本来は主要大名だけが任じられるものだった。この辺の説明は大略合っている。ただ、戦国末期になっても機能はしていた。後北条氏の場合、同じ兄弟でも他家を継いだ氏照・氏邦は推挙されず、次男扱いだった氏規だけが任じられている。憐憫から将軍が勝手に任じるような代物ではない。氏真が家中で見放されたかは定かではないが、1568(永禄11)年末に武田晴信が奇襲をかけるまで、氏真が東遠江と駿河を領有していたのは事実である。歴史に詳しくない読者が「早々に」を8年後と理解するだろうか。挙句に、若い頃に乞食とは……1583(天正11)年8月までの氏真足跡は比較的しっかりしているが、この段階で既に45歳になっている。20歳代の今川当主時代に勝手に放浪して京都で物乞いをしていたというのだろうか。このような妄説を書き立てる必要があったのか疑問に思った。
247ページ 「事実、桶狭間の戦いに関しては、今川方の記録らしい記録は、今日まで一切ない。後に駿河を領有した家康の手で、すべての真実が、闇から闇へと葬られた疑惑が濃厚である」
→むしろ、今川方にしか明確な史料が残されていない。織田方の文書が間接的な1点(佐久間信盛書状)しかないからこそ、怪しげな『信長公記・首巻』が公式記録のように扱われている現状だ。また、徳川家康を慮った近世御用学者による真実隠蔽はあっただろうが、家康本人は気にしていなかったように思う。1562(永禄5)年に岡崎で逆心したと書かれた書状は放置され現代に伝わっているからだ。同時代史料の状況は、少し調べれば判ることだ。それを調べずに当て推量で「今川方の記録らしい記録は、今日まで一切ない」と書く著者の意図が判らない。
272ページ (武田晴信が巷間の合戦経緯を信じず)「駿河に置き去りにされた元康の妻築山殿の線から、今川方に信長毒殺の謀略があったとの傍証を得た」
→なぜかは不明だが、本書では、清池院殿(築山殿)は駿府に残し、信康だけを岡崎に引き取ったことになっていた。また、『改正三河後風土記』の影響と思われるが、清池院殿が武田氏と近しいという設定になっている。どちらもそのような同時代史料はない。
その他も細かい疑問・懸念が多数あるが、とりあえず一般的な読者層に悪影響がありそうな部分を挙げた(氏真の治部大輔任官を父の死後としているが、実際は生前の日付だし、氏真は上総介しか名乗っていない、など他にも色々と問題は多い)。
史料で追い切れない領域を、作家が独自の感性で再構築して見せるのが歴史小説の本道だと思う。ただそのためには、可能な限りのデータを集めるべきだ。それができないのなら、その旨明記すべきだろう。
本書のような誠意のない『自称歴史小説』が、荒唐無稽な巷説の寿命を延ばし、更には杜撰な憶測に基づく奇説を生み出すこととなる。
[…] 先日の書評『空白の桶狭間』で触れた、1560(永禄3)年5月19日に氏真が義元に同陣したかの検証を行なってみる。 […]