日頃目にしない鎌倉~南北朝の資料を見た際に「着到状」が後北条のそれと激しく乖離していたため、少し考え込んでしまった。
判り易く説明すると以下のような流れになる。
■鎌倉~南北朝
部将「ただいま部隊が加わった。これが着到状なので宜しく」
担当者「ご苦労さまです。拝見します。息子さんと弟さんがご一緒で……えーと、どなたでしょう?」
部将「こっちが弟、でこっちが息子。早く署名して返してくれよ」
担当者「もう少ししたら着到の読み上げがありますから。終わったら確認印をつけて返却しますね」
ポイントとしては、部将の手元に着到状(参陣証明書)が残ること・着到内容に員数や装備は含まれないことが挙げられる。
その部将が確かに参陣したことが証明されるので、子孫へ伝える武功としても機能する。
その一方、戦闘能力のない子供・老人の部隊でも構わないし、着到状をもらったら離脱しても判らなかった。
■戦国時代
部将「ただいま到着した。閲兵を頼む」
担当者「ご苦労さま。○○殿ですね。台帳を出すのでお待ちを……えーと、あ、あったあった。では閲兵時に」
部将「実は4人足りないし、10歳の奴が1人いるんだ。でも弓を取ったら鬼をも拉ぐ怪力でかの鎮西八郎為朝も真っ青という」
担当者「……あの子供が? とにかく却下です。すぐに帰して下さいね。合計5名不足でつけておきます」
部将「4人不足で何とかならないかなあ」
担当者「算定間違いをしたら私の首が飛びますから。どうも怪しいな。装備も武器も全部合ってます?」
部将「いやー、なにぶん資金難で。貸し出しとかない?」
こちらの場合、大名から着到状(参陣指示書)が部将に出されており、その通りに参陣するのが前提となっている。
また、部将の手元に着到証明は来ないため、奮闘して武功を挙げて感状を得なければならなかった。
さらに後北条氏だと、人数不足を物凄く細かくカウントしたり、逃げた8人の足軽を徹底的に追跡したりという高密度管理をしている。
有名な岡本八郎左衛門尉宛着到状では、兵種の指定だけでなく、徴発する個人名まで指示書に盛り込まれる徹底振り。
似たような状況なのが『軍忠状』で、鎌倉~南北朝時代では「合戦後にこういう活躍をして戦死者・負傷者はこんな感じという報告」だった。
着到状と同じく大名が確認印をつけて返却しており、部将の手元には残された。
これが戦国期に入ると、活躍内容を大名が顕彰する『感状』と、獲得した首級リストである『頸注文』、負傷者リスト『手負人数注文』に分かれる。
一般的に考えて、古文書は自分にとって有利なものほど残りやすい。感状・禁制が比較的多いのはその影響だろう。
ところが、確実な戦績である『頸注文』はその存在は確認できるものの、実物は見かけたことがない。
大名家に蓄積されていたのだと思うが、今川・武田は恐らく焼失し、後北条のものは謎の消滅をしているので何ともいえない。
部将に返される手負注文は、天野氏に対して今川氏がコメントつきで返却したのが唯一という状態。
後北条は精緻な徴兵システムを仕上げていた割に、勤務評定は謎が多い。
部将からすると、負担を強いられる部分はすごく細かくチェックされるのだけど、
合戦が終わると感状が一斉に配付されて終わり、みたいな感じだったと思う。そのくせ人数不足は責められるという。
それでバランスがとれているから後北条方になっていたのだろうが、個人的には腑に落ちないでいる。