畏友マリコ・ポーロ氏のブログ『後北条見聞録』の10月11日の記事「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」にて、氏康生母と思われる養珠院殿が、小笠原氏に関係しているという説が提示されていた。とても興味深く拝読した。
その種徳寺殿を調べてみたところ、経歴に不自然な点があったので考察してみた。
『後北条氏家臣団人名辞典』種徳寺殿の夫である小笠原康広の項目で「室の種徳寺殿は寛永二年六月五日に死去」とある。小笠原康広の生没年は1531(享禄4)年~1597(慶長2)年。没年が28年もずれているということは、種徳寺殿は康広の1世代後の年齢ではないか。
氏康の子女で年齢が大体確認できる人間は1536~1564年に生まれている。
- 天用院殿 1536(天文5)年?~? 夭逝
- 氏政 1538(天文7)年~1590(天正18)年 自刃
- 蔵春院殿 1540(天文9)年?~1613(慶長18)年 73歳?
- 氏規 1545(天文14)年~1600(慶長5)年 55歳
- 景虎 1553(天文22)年~1579(天正7)年 自刃
- 桂林院殿 1564(永禄7)年~1582(天正10)年 自刃
補1:天用院殿(新九郎)の生年は、氏康正室の瑞渓院殿が1535(天文4)年に入輿しているのと、氏政と同腹と考えられるため、天文5年と考えた。
補2:蔵春院殿(早河殿)も瑞渓院殿の所生と思われるので、自身の入輿の1554(天文23)年に15歳となるよう仮定した。兄氏政と夫氏真が同年なのでその2歳下となる。
補3:氏政から氏規の間に氏照・氏邦が入り、景虎の同年代に氏忠・氏光が入ると考えられる(活動開始時期が、氏照・氏邦は永禄、氏忠・氏光は天正からとなるため)。但し、氏忠・氏光は氏康の甥だという黒田基樹氏の説がある。
種徳寺殿が氏康の娘だったとして、もし1625(寛永2)年に亡くなったとすると、上限(天用院殿)では89歳、下限(桂林院殿)では61歳。上限の89歳は、物理的に不可能ではないものの少し不自然な気がする。
一方、種徳寺殿の息子(長房)は1655(明暦元)年に死没。長房の史料初出は1574(天正2)年の家督継承前。童名(孫増)だったことからこの年に7歳だとして、1567(永禄10)年生まれとなる(この時康広は36歳)。上記年齢範囲を使うと、31歳~3歳。上限・下限ともに不自然で、この時14歳となる景虎生年に近かったものと考えられる。
ここで仮に、氏規と景虎の中間の生年だとしてみる。1549(天文18)年なので、長房出産時は18歳、享年は77歳。これなら妥当性がある。
ところが今度は夫康広との年齢差が懸案になってくる。その差18歳。13歳で嫁したとしても康広は31歳。それまで未婚だったとは考えにくいので、種徳寺殿は後室と考えた方がよいだろう。そうなると、一門に近いとはいえ、主君の実娘を中年の家臣の後室に据えられるかという疑問が出てくる。
行き詰ったところで『後北条見聞録』を読み返してみる。為昌の菩提寺である本光寺を種徳寺殿が引き取り、その後種徳寺と改名した理由として、為昌が種徳寺殿の嫁ぎ先小笠原家と近しかったのでは、と推論されている。
ネットで検索してみると、種徳寺の開基は大徳寺127世(早雲寺9世)の準叟宗範。1594(文禄3)年に小笠原康広室(種徳寺殿)の後援で、本光寺を江戸麹町に移転して名を改めたことが始まりという。その後各地の大名が江戸に墓所を求めるようになり、宗派をなくした単立寺院になっていったようだ。
[warning]なぜ小笠原康広の正室なのだろうか。康広本人ではなく?[/warning]
そもそも、為昌の系統は玉縄北条氏として綱成の系統に継がれた筈だ。同時代史料でも、為昌室に対して綱成たちが子供として供養を行なっている。玉縄北条氏が本光寺殿を蔑ろにしたとは考えにくい。であれば小田原開城で行き場を失った本光寺は、同氏の菩提寺、陽谷山龍寶寺が引き取るべきではないか。1594(文禄3)年なら氏勝は存命である……。
ここでようやく仮説が構成できる。種徳寺殿が氏勝の姉であったらどうだろう。氏繁は1536(天文5)年、氏勝は1559(永禄2)年の生まれで年齢的には符合する。兄弟には氏舜・繁広、姉妹には深谷上杉氏憲室がいるが、まだまだ解明されていない部分も多い。康成→氏繁と改名した父の名が混同され、「氏康の娘」と伝えられた可能性もあるかも知れない。
婚姻時の事情もがらりと変わる。何らかの事情で寡夫となった準一門格の小笠原康広に、同じく準一門格の氏繁娘を添わせた。これならすっきりする。
種徳寺殿は、どんな思いで本光寺を引き取ったのだろう。ひたすら徳川大名化していく弟を見切り、一族の開祖本光寺殿を祀る寺院を自ら建立させた姿を想起すると、なかなか感慨深いものがある。
ただ、これはあくまで仮説に過ぎないが。