小田原合戦での両軍の思惑を書き出してみる。便宜上、後北条方を東軍、羽柴方を西軍とした。私が想定する布陣図は以下のようになる。

■東軍

実際の総指揮は氏政が行なっていたと思われる。これは、氏規宛て書状、猪俣邦憲宛て書状で具体的な指示を出していることから判る。しかし氏規宛ての同じ書状の中で「氏直が決めたのだから方針は守れ」と書いている。山室恭子氏の『中世の中に生まれた近世』で、発行文書の統計から『後北条氏は隠居した当主の権限が非常に低い』と指摘していることと合致する。氏政に決裁権はないのに指示は出すという捩れが見られる。

とはいえ、1561(永禄4)年・1569(永禄12)年の小田原籠城をどちらも経験しているのは氏政のみである。実際の迎撃プランは彼が立案したものと考えた方が自然だ。極めて個人的な見解だが、永禄年間どちらの攻撃でも、近世本丸・二の丸の低地部分は放棄して八幡山に籠城したと考えている。近世本丸を中心とした丘陵はなだらかで比高も低いため、国持大名クラスの総攻撃を受けられるような地勢にない。しかも背面の八幡山を取られれば一巻の終わりである。であれば最初から八幡山に籠もった方がよい。

少し寄り道して、この仮説に妥当性があるかを述べてみる。

永禄4年では、氏康が大藤式部に送った書状で「敵の『物先』に合わせて水之尾へ来て下さい」と書いている。「来て」ということは、この時点で氏康は水之尾付近にいたことになる。近世本丸付近にいるのであれば、「水之尾を経て来て下さい」となるだろう。また、同じ日付の宗哲書状では、「鉄砲500挺で堀端にも寄せさせていない」とある。従来は蓮池を軸にした水堀と考えていたが、八幡山が舞台だと空堀の向こうの比高二重土塁の上に敵を寄せ付けなかったことになる。これも同じ日付で氏政は「敵が渡河したので当口へ移って下さい」としている。この3名は同じ場所にいて、同じ使者に一括で書状を持たせたとみてよいだろう。

永禄12年の場合、武田晴信の文書で「氏政居館を始めとして全て放火した」とか「巣城だけに蹴り詰めた」とある。氏政居館が御本城にないことは確実(別の大石氏書状で死去間際の氏康が「御本城様」と呼ばれている)なので、永禄4年と同じく近世本丸(居館)は放棄して氏政も八幡山本城に入っていたのだろう。晴信は蹴り詰めたと書いているが、逆に近世本丸を占拠したのはいいものの、八幡山から見下ろされて陣地確保ができなくなった可能性がある。

どちらの経験も、平時の曲輪は当てにならず、最終的には八幡山を中心とした丘陵を押さえた者が勝つ、という教訓を氏政に与えたと思われる。

もう1つの要素が天正壬午の乱での敗戦である。当初上野国の確保を目指して氏直自らが出兵したのだが、信濃に乱入してしまう。一時は信濃で優勢を築き、甲府盆地に出てきた徳川家康と一戦しようとしたところ、新府城に籠もる徳川方を抜けず、若神子で長陣。氏政が慌てて小田原から援軍を送るが敗退。真田氏の寝返りで東山道の兵站線も途絶してしまい、氏直本隊が孤立、結局信濃・甲斐を徳川に明け渡すこととなる。このことから、遠征軍は延び切った兵站線が最大の弱点だと身をもって体験したことになる。

今回は逆に敵の兵站線を叩く作戦に出て、箱根をわざと越えさせて補給部隊をゲリラ攻撃する・早川右岸揚陸地点を奇襲する、という戦略を選んだのではないか。

そして小田原城の防御を地形から考えると、敵が箱根を越えて来る場合は水之尾が最大の弱点となる。塔の峰から見下ろす形で小田原市内まで一気に乱入可能だし、足場もよい。この稜線を確保するため、築城技術の粋を凝らした水之尾櫓・水之尾曲輪が生まれたのだと考えられる。また、外郭の外ではあるが「佐野天守」という地名があることから、ここには氏忠が入ったと想定できる。

その後方の小峯御鐘台には氏政が入ったと考えられる。『戦国期の小田原城 北条当主はどこにいたか』(森幸夫著・小田原市郷土文化館研究報告45号)の解説によると、氏直投降後も氏政・氏照が城に入ったままだったことから考えて、氏政が氏直と同じ曲輪にはおらず、別の場所(新城)にいたと指摘している。その過半は納得できるが、著者の森氏が縄張り図面(小田原陣仕寄陣取図)の「一の丸=近世二の丸周辺、御本城=近世本丸=氏直拠点、新城=八幡山古郭=氏政拠点」と推論されている点は首肯できない。縄張りの形、名称から自然に考えれば「一の丸=近世本丸=氏直拠点、御本城=八幡山古郭、新城=小峯/水之尾曲輪群=氏政拠点」となるのではないか。

氏政の書状には、築城の細かい点を指図した内容が多い。上下の二重戸張を基軸とした複雑な縄張りは、氏政が自ら作業の指揮もしたのではないか。猪俣邦憲・北条氏規に「自ら鍬を持って……」と指導していたことから、全く可能性がない訳ではないと思う。ちなみに、八幡古郭は緩衝空間とし、過去2回のように低地部が陥落した際に氏直らの部隊を接収する用途だったと考えている(森氏が推測するように八幡古郭に氏政が入ってしまうと、低地部隊を収容する空間がなくなってしまう)。

小峯から南に伸びる稜線である天神山には氏照を配したようだ。氏照は早川口を受け持ったという伝承があるが、ここと板橋口を監視するのに天神山は最適である。前回指摘した二重戸張による攻勢も考慮するならば、実戦で組み慣れた氏照の起用がベストだろう。

北東の井細田方向に伸びる稜線には、氏光・氏房を置いたようだ。氏光が山の神台にいたのは伝承として曖昧だが、氏房が谷津御鐘台にいたことは、当時の絵図からしても確度が高い。氏光は直前まで足柄城にいたようだが、山中城が半日で抜かれたことを受けて呼び戻されたと思われる。

井細田から山王にかけての東部防御線に関しては、雑多な情報しか伝わってこない。篠曲輪には山角氏がいたという伝承はあるが、松田氏・垪和氏といった譜代衆の動向すら不明で、その他の成田氏・上田氏・千葉氏らは霞の中にいるようだ。渋取川と山王川の乱流域を使った浮き城で、始めから攻防がなかったような感じだろうか。

この曖昧な東部部隊から、一の丸天守にいる氏直の背後を取り囲むように、後北条の一族が居並ぶ様子が見られたことだろう。ある意味「お前たちは信用していない」という告白だ。これは、永禄4年の合戦で関東の大多数の国衆が一斉に背いたことと関係していると思われる。ここまで必死に関東に溶け込もうとした後北条氏が、土壇場で自らは異分子であると宣言したようなものだ。実質、この段階で関東戦国大名としての後北条氏は消滅していたと言える。

  • 政略目標:戦闘を伴う駆け引きにより可能な限り好条件で秀吉に出仕する
  • 戦略目標:大兵力の弱点である兵站を崩壊させ、撤退に追い込む
  • 戦術目標:小田原に主力を釘付けにしつつ各支城からゲリラ攻撃を仕掛ける

西軍

兵数では圧倒的に多い上、治罰綸旨と錦旗まで用意している。死角はない筈だが、1つのジレンマがあった。

前提条件として、総大将の秀吉が欠けると、途端に崩れる点を認識したい。支隊同士の戦闘では問題ないのだが、長久手の大敗戦・戸次川の悲劇を見ると、秀吉抜き・国持ち大名クラスの戦闘では負けている。賤が岳合戦も、秀吉の高速移動がなければ危なかった。四国攻めだけはうまく行っているが、これは秀長が主将を務めたからだ。

とはいえ、普通に考えれば秀吉が前線に行けばいいだけなのだが、この前年に初の男児を授かっただけに、死の危険が少しでもある場所には行きたがらないという傾向が見られる。秀吉が当初本陣にした早雲寺は、石垣山と似た条件を備える。

  1. 早川の右岸である
  2. 早川に向かって急斜面を持っている

現在の早雲寺は小ぶりの寺院だが、後北条期は箱根町役場が建っている丘全域を取り込んでいたと考えられている。ここは急な崖を備えた要害の地で、攻め込まれても時間稼ぎはできる。つまり、秀吉本陣はかなり防御に気を使い、圧倒的な兵力の割に小心な布陣となっている。

その他の部隊を見ると、最も攻めやすい水之尾には宇喜田秀家がいる。秀吉は彼に手柄を立てさせたかったのではないか。次いで、山中城攻めで功績のあった秀次が水之尾北方の天子台にいた。これには弟の秀勝がつけられている。その東の低い丘には蒲生氏郷、丘陵の末端の多古には徳川家康がいた。

韮山城攻囲がひと段落ついたところで、細川忠興が富士山砦に、織田信雄が多古陣場に入る(老練の織田信包は丸塚で宇喜田の補助につく)。徳川はそのまま南下して今井陣場に移っていた。ここは低湿地で作戦がやりづらいし、万一撤退が始まった際は殿軍となってしまう。徳川は先陣としてかなり厳しい立場に置かれたと言えよう。

宇喜田>羽柴秀次>蒲生>細川>織田>徳川

この順番で攻め易くなっており、ここに秀吉の意図があった。

  • 政略目標:2年後に予定している朝鮮攻めの模擬を兼ねた征服
  • 戦略目標:21万の兵站を完全運用し、かつ初めての敵地で拠点を確保する
  • 戦術目標:小田原城の完全封鎖と総構内への突入

では実際にどう決着したのか。次回は合戦の結末とその後についてまとめてみる。

「(懸紙ウハ書)松平亀千代殿 治部大輔」

去廿日、父忠茂於保久・大林討死、忠節之至也、知行被官以下、如前々永不可有相違、若被官百姓就有緩怠之儀者、遂糾明可令成敗、其外之事者、父忠茂仁出置如判形領掌了、弥可励忠功者也、仍如件、

弘治二年

 二月廿七日

治部大輔(花押)

松平亀千代殿

→戦国遺文今川氏編「今川義元判物」(東京都杉並区今川・観泉寺所蔵東条松平文書)

 去る20日、父の忠茂が保久・大林で討ち死にし、忠節の至りであった。知行・被官以下、全てを以前の通りで相違ないように。もし被官・百姓で怠慢な者があれば、詳細を調べて成敗する。その他のことは、父の忠茂に出した印判によって保障する。いよいよ忠功に励むように。