伊東同心香坂甲斐衆、妻子不持間、当陣取遣候条、其地へ越候、当陣之間預ヶ申候、他国衆候間、能ゝ可有懇候、仍如件、

伊東 奉

巳 三月十三日 左衛門太夫殿

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条家虎朱印状写」(甲斐国誌七十二)

1557(弘治3)年に比定。

 伊東同心の香坂甲斐衆、妻子同伴ではないので、当陣で取り使うためその地へ送ります。当陣にいる間は預けます。他国衆ですから、よくよく懇切にして下さい。

去四日御注進状、同六日到着、然者長尾弾正少弼向其地、雖相動候、御備堅固故、無其功退散、誠以我ゝ一身満足候、

一自小田原之返礼、両通進置之候、一此度其地へ敵取懸候処、後詰遅ゝ、無功之由蒙仰候、近比無御余儀候、雖然敵向其地相働候由、従忍申■候間、翌日後詰之様躰成下申合可致之由存、杣谷へ相移候、然者甲州衆も、小山田・加藤半途へ雖打出、敵退散候間、被打返候、一氏康ニ、其地敵詰陣ニ付而者、以夜継日可申越候、河越へ打出、厩橋へ可及後詰由、雖被申越候、隔坂和田川陣取之由候間、出馬遅ゝ候処ニ、敵敗北無是非候、努ゝ非無沙汰候、

一東口御計儀如何処哉、承度存候、一梁中者証人を被取返之由候間、如兼約可有之候哉、是又可被引付事、可有御前候、

一近衛殿、厩橋へ引取申候事、為如何仕合候哉、承度候、

 此上者、来調儀ニ極候、此方ニも其用意迄候、其内東口御調専要存候、一赤文事、無是非存候、忍へ被移候由被申越候、其地へ可被引取候歟、承度候、猶於珍儀者切ゝ御注進可為専肝候、恐々敬白、

三月十四日

源三

 氏照(花押)

天徳寺

 参机下

→神奈川県史 資料編3「北条氏照書状」(涌井文書)

1562(永禄5)年に比定。

 去る4日のご報告書、同月6日に到着しました。ということで長尾弾正少弼がその地に向かって出撃したのに、ご守備が堅固で功なく退散。本当に我々は心から満足しています。
 一、小田原からの返礼は両通を進呈します。一、この度そちらに敵が攻撃したところ、後詰が遅々としており功がなかったとの仰せでした。近頃は止むを得ないことです。そうは言っても敵がその地へ出動したと忍より連絡がありましたので、翌日後詰の編成を指示して申し合わせようとの考えで、杣谷へ移動しました。そして甲斐国の部隊も、小山田氏・加藤氏が途中まで出動していたのですが、敵が退散したということで引き返しました。一、氏康は、その地に敵が陣を詰めた件について夜を日に継ぎご連絡いただいたので、川越に出撃し、厩橋へ後詰しようとお知らせしましたが、坂を隔てて和田川に陣取ったとのことで出馬が遅々としていました。そんなところに、敵が敗北して是非もありませんでした。間違っても無沙汰ではありません。
 一、東方面の作戦はいかがでしょうか。お聞きしたく思います。一、梁田中務大輔は証人を取り返されたとのことですから、兼ねて約束したようになっているのでしょうか。これもまた裁決を仰ぐため御前に上げて下さい。
 一、近衛殿が厩橋へ引き取られたこと、どのような巡り合わせなのでしょうか。お聞きしたく思います。
 この上は、来る調略に極まります。こちらにもその用意があります。そのうち東方面はご調整が最も大事です。一、赤井文六のこと、是非もないと思います。忍へ移されたとのことご連絡いただきましたが、その地へ引き取られたのでしょうか。お聞きしたく思います。変わったことがありましたら小まめにご報告いただくことが大切です。

昨廿七日、於武州松山、越国衆追崩、敵一人打捕、忠節候、向後弥至ゝ走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、

永禄二年

十一月廿八日

氏政 判

小畑太郎左衛門殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政感状案写」(古文書二)

1561(永禄4)年に比定。永禄二年ではなく、永禄[二二]年だったと思われる。

 去る27日、武蔵国の松山で越後国を追い崩し、敵1人を討ち取りました。忠節なことです。今後はますます活躍するなら、取り急ぎ恩賞に及ぶでしょう。

昨日廿七越国衆生山へ上備ニ付而、進旗処ニ、敵敗北、打押付、利根川端迄追詰、尽粉骨被走廻由候、戦功無比類候、弥忠節肝要候、仍如件、

永禄[二二]年

十一月廿一日

氏政 在判

太田豊後守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政感状案写」(感状写)

 昨日27日、越後国の部隊が生野山に備えを上げたので、旗を進めたところ、敵は敗北。討ち押して利根川の岸に追い詰めて粉骨を尽くして活躍したとのこと。戦功は比類がありません。ますますの忠節が肝要です。

昨日廿七、於武州生山、越国衆追崩、蒙疵候、忠節候、向後弥至于走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、

永禄四年

十一月廿八日

良知弥三郎殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政感状写」(安得虎子十)

 昨日27日、武蔵国生野山において、越後国の部隊を追い崩し、負傷しました。忠節なことです。今後ますます活躍されるならば、取り急ぎ恩賞に及ぶでしょう。

昨日廿七、於武州生山、越国衆追崩、数ヶ所蒙疵、本江討捕之、高名尤感悦候、向後弥至于走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、

永禄[二二]年

十一月廿八日

(北条氏政花押)

小野藤八郎殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政感状写」(相州文書所収大住郡七右衛門所蔵文書)

 昨日27日、武蔵国生野山において、越後国の部隊を追い崩し、数箇所負傷して本江を討ち取りました。高名はごもっともで感悦です。今後ますます活躍されるならば、取り急ぎ恩賞に及ぶでしょう。

 尚以、被対公儀可有御忠節之由、被相定候上者、私之意趣不入事候、其方次第警固船等之儀可申付候、先度被相越候使者、此方へ可給候、内証之儀可申入候、以上、

其方御覚悟、此比相違之儀、御同彦次郎被申越付而承届候、内証之趣、国分寺具被相達候、尤無余儀候、兎角御忠節之事者、両島格別ニ可在之候条、私之意趣更不入儀候間、最前之通、於此方聊不可有相違有候、国分寺如被披見及候、此表敵城之中へわり入、かわやか城・すくも塚両城取巻、其上小早川幸山候得共、毎日此方足軽申付、十町・十五町之内迄雖令放火候、一人も不罷出候条、落居不程有候、委細国分寺可被申入候、恐々謹言、

羽柴

  秀吉 御判

卯月十九日

村上掃部頭殿

      御宿所

→証言 本能寺の変「羽柴秀吉書状写」(『萩藩門閥録』二二)

 あなたの覚悟にこの頃相違がある点。ご同姓彦次郎の連絡について、了解しました。機密であること、国分寺が詳しく言ってきました。ごもっともで仕方のないことです。とにかく忠節は両島で格別に思っていますので、私見が入ることはありません。従来通り、こちらでも相違があってはならないでしょう。国分寺は、披見されたように、この方面の敵城の中へ攻め込み、かわやか城・すくも塚の2城を攻囲。その上小早川が幸山にいても、毎日こちらで足軽を指示して、10~15町の内部にまで放火させました。1人も出撃して来ませんでしたから、落城も程なくです。詳しくは国分寺が申し入れるでしょう。

追:さらに、公儀に対してご忠節なされるそうで、定まった上は私見が入りません。あなた次第で警固船などのことを指示するでしょう。先に派遣された使者をこちらへお寄越し下さい。機密事項を申し入れます。

尚々御朱印ハ四国きりとりの御朱印ニ候、おもてむきハ、三吉養子ニなり候分ニ候、八月ハ寺にも為見舞、可被越分にて候、相のこる我等ハ当寺古仏と一所に相はて可申内性候、くわしく申候へく候へとも、いそき候まゝあわれ存命之中ニ申承度候、以外、

何哉御遷宮之儀付、安土へ御上之由承及候、はやゝゝ御下向候哉、御公事之儀如何候、無心許候、次此方三七様連々御望候四国へ、御朱印にて、当郡之名主百姓六十をさかひ、十五をさかひにて、悉御越候、諸牢人亀山おや子・千種方・阿野・草沢・野呂・北方萩原殿・栗原殿・桑名伊東・三之尾方・伊賀衆・甲賀衆七八百・さいか衆千許、大方注進之候、四国之儀も、大略公事にてめなり候由、三吉正かんかたより申来候、五月廿五日、上様之御目とりにて御越候、安土衆各御はなむけにて、上下人夫・馬迄、八月迄之兵粮出申候、一夜に大名ニ御成候、郡内ニ残候者とてハ、我等と寺沙弥迄にて候、是ハ武具不相調候て、御供不被申候、恐々謹言、

五月廿一日

正以(花押)

(上書)「(切封墨引)

  内宮 ■波殿 まいる御宿所

     神戸 慈円院 正以」

→証言 本能寺の変「慈円院正以書状」(神宮文庫所蔵)

1582(天正10)年に比定。

追:なおなお、ご朱印は四国切り取りのご朱印です。表向きは三好氏の養子になるということです。8月は寺に見舞いとして行かれるだろうとのことです。居残る私は当寺の古仏と一緒に果てる覚悟です。詳しく申し上げたいのですが、急いで存命のうちに申したいと思います。

 何かご遷宮のことについて、安土へ上られるとのことを聞きました。早々に下向なさるのでしょうか。知りたく存じます。『公事』のことは如何でしょうか。心もとなく思います。次いでこちらは三七様が常々希望していた四国へ、ご朱印を使って、この郡の名主・百姓で15~60歳を境にして全員連れて行かれます。諸牢人の亀山親子・千種方・阿野・草沢・野呂・北方萩原殿・栗原殿・桑名伊東・三之尾方・伊賀衆・甲賀衆700~800・雑賀衆1,000ばかり。大方は編成されました。四国のことは、大体『公事』として召集されたとのこと、三好咲岩方から言ってきました。5月25日、上様のお目通りでお越しになります。安土衆それぞれが餞別として、陣夫・馬に至るまで総員の兵糧を8月まで供給すると申し出ました。一夜にして大名となられまして、郡内に残る者は私と寺沙弥だけです。これは武具が用意できなかったのでお供できなかったのです。

就近般信長恣儀相積、不慮城都取退候、然此節甲州令一味、天下静謐馳走頼入候、為其差越一色中務大輔、猶藤長可申越候也、

三月廿日

(義昭花押)

水野下野守とのへ

→証言 本能寺の変「足利義昭御内書」(古証文)

 近頃、信長がほしいままにしていることが積み重なり、思いがけず京都を退きました。ということでこの時、甲州(武田氏)を一味とさせて天下静謐への奔走をさせるべく一色中務大輔を派遣しました。さらに一色藤長が申し伝えるでしょう。

正月廿五日之芳墨今月五日到着、仍荒木摂津守信長敵対、貴国一味以来至摂・泉両州諸卒被立懸、輝元二月五日出張、海陸之行無御由断之由肝要候、然者当方尾・濃口手合事、度々如申達候、聊不可有用捨候、幸西国平均、彼表無異儀之上者、太坂并荒木儀堅固之内程近被打寄、 公儀御入洛、太坂・荒木被引救、可被属五畿内静謐儀、悉皆不可如貴辺諫言候、委釣閑斎・跡部大炊助可申候、恐々謹言、

卯月六日

勝頼(花押)

吉川駿河守殿

→証言 本能寺の変「武田勝頼書状」(吉川家文書八三)

1579(天正7)年に比定。

1月25日のお手紙が今月5日に到着しました。さて、荒木摂津守が信長に敵対し、貴国と同盟して以来摂津国・和泉国2国の諸兵を動員して毛利輝元が2月5日に出撃。海陸の作戦にご油断がないことが大切です。ということで、こちらの濃尾口で交戦する件ですが、度々申しておりますように、いささかの容赦もないでしょう。幸いにして西国を統一してその方面で異議を唱える者がいなくなった上は、大坂(本願寺)と荒木が堅固に守っている近くに出兵して、公儀(足利義昭)がご上洛し、大坂・荒木をお救いになって、5畿内を制圧して静かになさいますように。全てはあなたの諫言がなければなりません。詳しくは長坂釣閑斎と跡部大炊助が申すでしょう。