正月廿五日之芳墨今月五日到着、仍荒木摂津守信長敵対、貴国一味以来至摂・泉両州諸卒被立懸、輝元二月五日出張、海陸之行無御由断之由肝要候、然者当方尾・濃口手合事、度々如申達候、聊不可有用捨候、幸西国平均、彼表無異儀之上者、太坂并荒木儀堅固之内程近被打寄、 公儀御入洛、太坂・荒木被引救、可被属五畿内静謐儀、悉皆不可如貴辺諫言候、委釣閑斎・跡部大炊助可申候、恐々謹言、
卯月六日
勝頼(花押)
吉川駿河守殿
→証言 本能寺の変「武田勝頼書状」(吉川家文書八三)
1579(天正7)年に比定。
1月25日のお手紙が今月5日に到着しました。さて、荒木摂津守が信長に敵対し、貴国と同盟して以来摂津国・和泉国2国の諸兵を動員して毛利輝元が2月5日に出撃。海陸の作戦にご油断がないことが大切です。ということで、こちらの濃尾口で交戦する件ですが、度々申しておりますように、いささかの容赦もないでしょう。幸いにして西国を統一してその方面で異議を唱える者がいなくなった上は、大坂(本願寺)と荒木が堅固に守っている近くに出兵して、公儀(足利義昭)がご上洛し、大坂・荒木をお救いになって、5畿内を制圧して静かになさいますように。全てはあなたの諫言がなければなりません。詳しくは長坂釣閑斎と跡部大炊助が申すでしょう。