去四日御注進状、同六日到着、然者長尾弾正少弼向其地、雖相動候、御備堅固故、無其功退散、誠以我ゝ一身満足候、
一自小田原之返礼、両通進置之候、一此度其地へ敵取懸候処、後詰遅ゝ、無功之由蒙仰候、近比無御余儀候、雖然敵向其地相働候由、従忍申■候間、翌日後詰之様躰成下申合可致之由存、杣谷へ相移候、然者甲州衆も、小山田・加藤半途へ雖打出、敵退散候間、被打返候、一氏康ニ、其地敵詰陣ニ付而者、以夜継日可申越候、河越へ打出、厩橋へ可及後詰由、雖被申越候、隔坂和田川陣取之由候間、出馬遅ゝ候処ニ、敵敗北無是非候、努ゝ非無沙汰候、
一東口御計儀如何処哉、承度存候、一梁中者証人を被取返之由候間、如兼約可有之候哉、是又可被引付事、可有御前候、
一近衛殿、厩橋へ引取申候事、為如何仕合候哉、承度候、
此上者、来調儀ニ極候、此方ニも其用意迄候、其内東口御調専要存候、一赤文事、無是非存候、忍へ被移候由被申越候、其地へ可被引取候歟、承度候、猶於珍儀者切ゝ御注進可為専肝候、恐々敬白、
三月十四日
源三
氏照(花押)
天徳寺
参机下
→神奈川県史 資料編3「北条氏照書状」(涌井文書)
1562(永禄5)年に比定。
去る4日のご報告書、同月6日に到着しました。ということで長尾弾正少弼がその地に向かって出撃したのに、ご守備が堅固で功なく退散。本当に我々は心から満足しています。
一、小田原からの返礼は両通を進呈します。一、この度そちらに敵が攻撃したところ、後詰が遅々としており功がなかったとの仰せでした。近頃は止むを得ないことです。そうは言っても敵がその地へ出動したと忍より連絡がありましたので、翌日後詰の編成を指示して申し合わせようとの考えで、杣谷へ移動しました。そして甲斐国の部隊も、小山田氏・加藤氏が途中まで出動していたのですが、敵が退散したということで引き返しました。一、氏康は、その地に敵が陣を詰めた件について夜を日に継ぎご連絡いただいたので、川越に出撃し、厩橋へ後詰しようとお知らせしましたが、坂を隔てて和田川に陣取ったとのことで出馬が遅々としていました。そんなところに、敵が敗北して是非もありませんでした。間違っても無沙汰ではありません。
一、東方面の作戦はいかがでしょうか。お聞きしたく思います。一、梁田中務大輔は証人を取り返されたとのことですから、兼ねて約束したようになっているのでしょうか。これもまた裁決を仰ぐため御前に上げて下さい。
一、近衛殿が厩橋へ引き取られたこと、どのような巡り合わせなのでしょうか。お聞きしたく思います。
この上は、来る調略に極まります。こちらにもその用意があります。そのうち東方面はご調整が最も大事です。一、赤井文六のこと、是非もないと思います。忍へ移されたとのことご連絡いただきましたが、その地へ引き取られたのでしょうか。お聞きしたく思います。変わったことがありましたら小まめにご報告いただくことが大切です。
いつも興味深い史料を訳していただきありがとうございます。この書状なども、当時の緊迫した情勢がそのまま伝わってくる貴重なものだと思います。
書状の内容の本筋とは無関係な感想かもしれませんが、やはり敵対している北条氏にとっては、上杉の呼称はあくまでも「長尾」なんですね。逆に、当時の関東で上杉の名跡が持っていた重みが感じられます。
他方、最近読んだ『関ヶ原前夜』(光成準治著、NHKブックス)という本で知ったのですが、関ヶ原当時の文書で上杉景勝のことを「長尾殿」と呼んでいる例があるようです。同じ西軍仲間の毛利氏や島津氏の書状ですから、景勝を貶めて旧姓で呼んでいるわけでもないようです。謙信が上杉の名跡を継いでからかなりの年月が経った時期なのにいまだ「長尾」姓が生きているとは、意外で興味深いことでした。
コメントありがとうございます。師走の多事にリプライが遅れてしまいました……。
後北条氏は、相越同盟を結ぶと「山内殿」としますが、それまでは「長尾」として輝虎を呼んでいます。扇谷・山内の両上杉も、北条改姓を認めず「伊勢」と呼んでいる事例もありますが、特に後北条氏の場合は、憲政から輝虎への関東管領委譲を認めると、自身の関東管領職の否定につながる事情があるかと思います。
『関ヶ原前夜』のご紹介ありがとうございます。1600(慶長5)年になっても「長尾」と呼んでいた例は興味深いです。時間が空いたら早速確認してみます(景勝は上田長尾出身で、山内上杉家から見ると『分家の家臣の分家筋』という扱いですから、長尾と呼ばれることは存在否定になってしまう気がします)。