「お墨付き」という言葉は現代でも活きており、上位者から承認を得たものとして使われる。そして、「太鼓判」という言葉も残っている。こちらは上位者というよりはその道の達人が当該物の品質を保証するという意味合いだ。情報や判断の保証である「お墨付き」「太鼓判」という古い言葉が、インターネットやテレビが隆盛する現代にも残っているのは興味深い。
 どちらも戦国期に確定した文書形式に関係がある言葉だ。「お墨付き」の「墨」は直筆か花押(サイン)に該当するし、「太鼓判」は文字通り「印判」がそれに当たる。大名の権威を持った文書を得るため、戦国時代の人々は奔走した。

 中世には自力救済の考え方が大きく入っている。これは、自分の身は自分で守るというもので、発行される文書のあり方にも影響を与えている。
 例で挙げてみる。B祭の開催ごとに、A氏は自宅の庭先にゴミを廃棄されて困っていたとしよう。現代であれば、A氏はまず町内会・もしくは市役所(または警察)に相談する。その中で、「祭礼時に個人宅にゴミを廃棄してはいけない」という条例があるかを確認するだろう。あれば「条例違反です」と看板を立てて本人が見張るだろうし、条例がなければ「マナー違反です」と看板の表記を変えると考えられる。これが現代版の自力救済となる。
 とはいえ、現代では家が潰れる程のゴミが来た場合は警察や自治体が保護してくれる。一方、中世ではそれも自力救済のままだ。一番判りやすいのが「禁制」。これは戦時に寺社・村などに発給される文書で、その村に対する禁止事項が記載されている。たとえば、今川義元禁制にあるように、基本的にはその寺社に預けられた物資・人員の権利保護が謳われる。財産や人権の保護は現代でも保証されているが、内容は大きく異なる。
 現代の国民国家では、文民統制が原則だし国民を守る義務を軍は持っている。「いかなる民間施設に対しても暴行は認められない」という前提を構築して、国民を守ることを明示。その上で超法規措置を例外として逐次指令することとなる。この例外処理は司令部が各部隊側に通達する。それは、事前通告したという既成事実があって初めて違反者を処罰できるからだ。
 戦国大名の権力は国民国家でないため、軍が民間人を保護する義務を持たない。このため、保護を希望する民間施設は大名に例外処理を依頼することとなる。先の例で大樹寺は、今川義元からの禁制を得るために発行手数料(御礼銭)を用意しなければならない。
 そして、禁制が出されたからといって自動的に保護される訳ではない。各部隊には通知されないため、禁制を与えられた側が襲ってくる部隊ごとに禁制をかざして対峙する必要がある。禁制を示したのに襲われても権力側は補償しない。そういう状況の中で、寺や村の武装化は進展していったと思われる(寺・村の武装化に伴って戦国期内戦が激化したという説もあるが)。

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4 comments untill now

  1. 通りすがりの者 @ 2010-09-23 05:54

    😈 嘘はいけない。
    供託ではない。返してもらえるわけではないからだ。
    どちらかと言えば、礼金だろう。

    村人は古代から武装していた。戦国時代になったから武装し始めたわけではない。武装の程度は財力によるだけだ。

  2. コメントありがとうございます。「供託金」については、記述の修正を行ないました。宛所・発行日・金額などを大名側が把握していた点、狼藉に対して補償が仄めかされた点を踏まえて、印紙税と供託金が合わさったものが「制札御礼銭」だという曖昧な想定があり、不適切な記述となってしまいました。 🙁

    古代からの武装については把握しておりませんでした。私が調べた限りでは、村や寺が自前の城・戦闘部隊・軍事同盟を備えていったのは、室町中期頃を画期としていたとされている説が殆どでした。古代村落の武装について参考になる書籍などをご紹介いただけると嬉しく思います。

  3. 軍防令

  4. コメントありがとうございます。律令の文言は村の実態とは異なるように思いますが、一先ず参考意見として承ります。