急度令馳一簡候、仍信玄濃州之内遠山号岩村認候処、城主取合、敵数多討捕、敵追払候、則織田信長兄弟ニ候織田三郎五郎・河尻与兵衛、遠山岩村江入置、遠山七頭織田被入手候、惣躰遠山証人信玄ニ、差置候処ニ、遠山兄弟病死候付、此度信玄打不虞候、結句以此次而信長遠山入手、信長成吉事事候、岐阜へ者、佐久間貮千余人ニ而、留守中被申付候、
一濃州へ之信玄相馳、以其足参州号山家三方へ信玄来、行候処ニ、是度家康取合被追払、信玄失手、駿州ニ有之由申候、織田信長・徳川家康、此度信玄成敵躰之事、且無擬、且信玄運之極歟、さりとてハ大事之覚語、信玄怠候、偏当家之弓矢わかやくへき随相ニ候、何様此口打釘、自春中信長・家康申合、信玄ニ行をかゝせるへく候、定而可為大慶候、
一従所ゝ申来分者、賀州凶徒可敗北由申来候、左様ニも候歟、初推名何も敵躰候者共、雖悃望候、とても見詰候間、此度撃取、向後迄此口為可心易、何をも申払候、如何様ニ只者、除間敷候条、可心易候、乍去夜中敗北候者、無了簡候、
一織田方・徳川方使者飛脚置詰、行談合候間、是亦可心易候、濃州へ者、自当陣五日路ニ候、参州へ者、七日路ニ候、程近申合候、
一為披見三木良頼書中・家康書中差越候、良頼書中之内、自綱相動候、今ハ良頼病気ニ而不期今明日候間、息自綱当陣へ越由候事候、万吉帰陳之節可申候、謹言、
 追而申候、信長ハ朝倉義景対陣、向義景要害多取立、陳中堅固ニ申付、息寿妙丸為差向、信長ハ濃州へ帰陣ニ而、家康令談合、如何共駿州へ打籠、此度可果由候、兎角ニ信玄はちのすに手をさし、無用之事仕出候間、信玄折角可申候、家康・良頼書中披見之上、厩橋へ可越候、飛脚労候者、彼飛脚ヲハ吾分所ニ留、身の直書・良頼・家康之書中、吾分飛脚に為持、弥五郎所へ指越、返事を取、彼飛脚ヲ可返候、其地所ゝ之寄合普請用心弓断有間敷候、以上、
十月十八日
謙信
河田伯耆守殿

→岐阜県史「上杉謙信書状写」(歴代古案)

 取り急ぎ書状をお送りします。信玄は美濃国のうち遠山は岩村を号して認めていたところ、城主の取り合いがあり、敵を多数討ち、敵を追い払いました。そして織田信長の兄弟である三郎五郎と、河尻与兵衛を遠山岩村に入れておきました。遠山の7頭を織田が入手されました。総じて遠山氏の人質は信玄のもとにおいていましたが、遠山兄弟が病死したので、今回は信玄を恐れませんでした。結局こうしたことをもって信長が遠山を手に入れまして、信長にとっては吉事となりました。岐阜には佐久間が2000余人で留守中の警備を申し付けていました。
 一、美濃国へ信玄が出動し、その足で三河国の山家三方と号すところへ信玄が来て作戦したところ、今度は家康が取り合って追い払いました。信玄は手を失い、駿河国にいるとのことです。織田信長・徳川家康が今回信玄と敵対したことは疑いないことで、信玄の運も極まったのでしょうか。全くもって、覚悟を信玄は怠りまして、ひとえに当家の弓矢が若やぐ瑞相です。どうやってでもこの方面で釘を打ちます。春中から信長・家康が申し合わせて、信玄の作戦を挫くならば、きっとめでたいことです。
 一、諸方面から報告があった分では、加賀国の凶徒が敗北するだろうとのことです。そのようにもなりましょうか。椎名氏を始めとしていずれも敵となった者たちで、懇望しているとはいっても、とても見過ごせるものではありません。この度討ち取ります。今後この方面の安心を得るため、何があっても受け付けず、何があろうとただでは済ませませんのでご安心を。とはいえ夜間に敗北してしまって了見を得ませんでした。
 一、織田と徳川方の使者は飛脚を常駐させ、打ち合わせを行なっていますので、こちらもご安心下さい。美濃国へは、こちらの陣より5日、三河国には7日の行程です。近距離で話し合っています。
 一、参照のため、三木良頼と家康の書面を送ります。良頼の書面で、自綱が出動しているとありますが、現在良頼は病気で今日明日も判りません。なので息子の自綱が当陣へ来るとのことです。万事は陣に帰ってから申しましょう。
 追って申しますと、信長は朝倉義景と対陣していましたが、義景に対して要害を多く築いて陣中を堅く指示し、息子奇妙丸を向かわせました。信長は美濃国に帰って家康と打ち合わせをし、何があっても駿河国へ侵攻して、この度は討ち果たそうとのことです。とにかく信玄は蜂の巣に手を突っ込み、無用なことを仕出かしたものですから『折角』となるでしょう。家康・良頼書面をご覧の上、厩橋へお送り下さい。飛脚が疲労していたら、あの飛脚は自分の所に留め、私直筆の書状、良頼と家康の書面をあなたの飛脚に持たせて弥五郎の所へ送って下さい。返事を持たせてあの飛脚をお返し下さい。そちらの各所での寄合普請には用心して油断がないようにして下さい。

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