就本多助太夫進退困窮、吉田蔵入之借銭、令訴訟之条免許之処、以其引懸、自余之供銭徳政之沙汰申触之由、自由之至也、任証文令催促、可請取之者也、如件、

永禄三年

十月十日

岩瀬雅楽助殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真?判物写」(三川古文書)

本多助太夫が進退に困った際に吉田の蔵から貸し出した借金の件。訴訟したので許諾したところ、その『引懸』(判決?)に託け、その他の供銭も徳政扱いになると周知したという。勝手の至りである。証文に任せて催促し、これを受領すること。

父和泉入道身上之事、先度子細雖相尋、猶以無疎略之旨、以罰文申上走朧段、明鏡之略申趣聞届候条令赦免畢、守此旨兄弟別而抽奉公之状、仍如件、

永禄三年庚申

十月十日

氏真判

岩瀬雅楽助殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(三川古文書)

 父である和泉入道の身上について。先に詳細を尋ねてきたが、ますます粗略がない旨、起請文によって上申し奔走した。はっきり申し出たことを聞き届け赦免する。このことを守り兄弟で格別の奉公をなすように。

 1561(永禄4)年3月に、後北条氏は越後方を主力とする軍勢の攻撃によって本拠地小田原を攻囲されるという危機に見舞われた。後に、北条氏康は「左衛門大夫が不在で兵が集まらなかった」とコメントしている(北条氏康書状)。後北条氏でこの官途名を使っているのは玉縄北条氏であり、この当時は北条綱成が当主だった。
 綱成は白川氏との取次を務めている。この時白川氏は佐竹氏と交戦中で、北条氏康は足利義氏を担いでその調停を試みている。そこで、綱成が白川氏の援軍として陸奥国白川近辺に出動していたと仮定してみよう。その場合、11月16日の北条氏康書状がポイントとなる。この書状で氏康は、取り乱してはいるものの防備に問題はないと言明している。年明けから後北条氏は危機感を持ち始めるが、この段階ではまだ強がりを言う余裕はあった。そしてそれに先立つ9月19日、北条氏康は佐竹氏に戦況を訊いている(北条氏康書状)。この書状からすると北条氏康は完全に中立の立場となり、関東公方である足利義氏の意向をメインに出している。今川義元が武田氏に援軍を送りつつ、武田・上杉両氏の和平を仲介した事例もあるので微妙ではあるが、佐竹氏にとっては敵方である白川氏に綱成が援軍として加わっているという情報は引き出せない。援軍を出していながら「そちらの戦況が判らず心もとない」というコメントを送りつけるのは、和平の仲介者としては白々し過ぎるように思える。どちらかというと、万一に備えて綱成は関宿城に詰めていたという解釈の方が自然である。
 ところが、綱成が関宿にいたのだとすると、「遠境に行って左衛門大夫がいなかった」という氏康記述は矛盾する。関宿からならいつでも戦線に加われるためだ。
 その他で何が起きていたか。今川氏は8月から三河国衣領で合戦を行なっている。この係争に破れて12月11日より前には撤退し、衣領所有者に領地振り替えを行なっている(今川氏真書状)。もし綱成がこの時に援軍として出撃していたとすると、今川氏が積極的に後北条氏に援軍を出していた点に納得が行く。綱成を三河国に貼り付けたままにしておく代わりに、小倉内蔵介を中心とする旗本精鋭部隊を川越城に駐屯させたのだろう。
 また、綱成の娘は北条氏規に嫁いでいる。氏規は今川氏に引き取られて育った経緯があり、仮名も『助五郎』という今川系のものになっている。本来であれば氏規が中心になるべきだが、彼はまだ若いので舅の綱成が赴いたと考えられる。
 さらに論を進めるなら、1560(永禄3)年5月の出征に後北条氏から援軍が出ていた可能性も充分に存在する。水軍を使って海路派遣されたのであれば、当時浦賀城に詰めていた綱成が援軍であったと考えられる。1561(永禄4)年の危機が去ってすぐに、氏康は水野信元に「松平の裏切りは嘆かわしいことである。自分自身が出陣しようか」と表明している(北条氏康書状)が、そのコメントは少し唐突であった。しかし、永禄3~4年で既に綱成が三河出征しているのであれば、氏康自身の出馬も俄然現実味を帯びた恫喝となる。
 この可能性を詰めるためには、永禄3~4年の今川・後北条の動きを調べ、北条綱成の関東不在がいつからいつまでだったのかを検証する必要があるだろう。この点は今後の課題として後述する。

「助五郎殿 御返事 義元」

猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、ニ三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、

文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様躰長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候、

→戦国遺文 後北条氏編「今川義元書状」(喜連川文書)

年次不明。助五郎は北条氏規。

 お手紙いただきました。珍しく拝見しています。こちらでは小田原で、皆さん全員にお会いしています。お元気そうですからご安心下さい。あなたの噂も出ました。春にはお出でになるとのことですから、色々と身に着けておいたほうがよいでしょうね。どの兄弟衆も様子が大人びていらっしゃいます。見限られてしまったら散々なことですよ。
 追伸。お手紙嬉しく思います。腕を上げましたね。更に手習いしましょう。2~3日のうちにここを立つでしょうから、20日頃にはそちらに参ります。家内にもこのことを伝えて下さい。色々とお会いした折に申します。かしこ。

今度御出陣之御留守、海上備、左衛門大夫被仰付候、其地船東海三艘、舟方一艘六人乗、積十八人、中五日致用意、如何様御判船候共罷出、可走廻、十六日目ニハ則可罷、此上難渋申船方をは、則奉行人搦取、可為引船をハ可押立、若奉行就無沙汰申付者、後日可遂成敗者也、仍如件、

九月十七日

大草左近大夫 奉

   羽田代官・百姓

奉行      船持中

      左衛門大夫代

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(森文書)

1561(永禄4)年に比定。

 今回ご出陣の留守において、海上の防備を左衛門大夫(北条綱成)に命じられました。その地の船から東海船3艘、乗員は1艘6名で合計18名を、中5日で用意、どのような『御判船』でも出せるように待機しておくように、16日目には準備完了せよ。これを拒む『船方』は奉行人が逮捕し、『引船』を押し立てよ。もし奉行が『無沙汰』と申告してきた場合は、後日成敗する。

為上州普請、近日出馬候、浦賀ニ者、左衛門大夫父子・遠山左衛門・布施・笠原已下人数、たふゝゝと指置候、可被存心安候、鎌倉ニ者、幻菴可有在陣候、氏政当府之間、其口之儀可被申越候、然間敵地ニ被付置目附、節ゝ可有注進候、其口之儀、悉皆任入候、上州ニハ廿日計可為逗留之間、帰陣之上、可申届候、恐々謹言、

三月十二日

氏康(花押)

正木兵部太輔殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状」(正木文書)

1558(永禄元)年に比定。

 上野国での普請のため、近日出馬します。浦賀には、左衛門大夫父子(北条綱成・氏繁)、遠山左衛門、布施氏、笠原氏以下の部隊が、多数駐屯していますからご安心下さい。鎌倉には幻庵(北条宗哲)が在陣するでしょう。氏政が当府(小田原)におりますので、そちら方面のことは指示を出します。ですから敵地に目付を置いて折々で報告をお願いします。そちらのことは、全てお任せしております。上野国には20日ばかり滞在の予定です。帰陣したらご連絡します。

 サム・ウェラーの調子が上がりっ放しになってきた中巻は、その前段階では行き当たりばったりだったストーリーが少し形作られていくような展開。サムのほか、ウィンクルも恋模様を見せ始める。スノッドグラースは上巻で既に恋愛モードに入っているが、ウィンクルは意外だった。その一方で、偽カサノバのタップマンがさっぱり姿を見せなくなりつつある(タップマンはスノッドグラース・ウィンクルより年嵩、ピクウィック氏よりは年下らしい)。
 解説の中で、ピクウィック+サム・ウェラー=ドン・キホーテ+サンチョ・パンサの相似形が語られていた。従者としてのサムはサンチョ・パンサを髣髴とさせるので容易に思い浮かぶが、ピクウィックの原型がドン・キホーテにあるという指摘は面白かった。理想主義者でお人好し、しかも世間知らずという設定は確かに似ている。ドストエフスキーがこの流れを作ろうとして『白痴』のムイシュキン公爵を創造したが、自身で及ばないと告白したという。
 ディケンズ作品ではお馴染みの裁判シーンが早速出てきていた。ここだけは何とも冗長過ぎる気がする。『荒涼館』ぐらいになると本筋に裁判が組み込まれているので納得できるのだが……。当時の裁判を研究している人には参考になるとは思うが、文学を読むには余りに細かいし、同時代でないと判らない点が多い。
 その他、『リトル・ドリット』で頂点を極める陰惨なプロテスタントの教義も、サム・ウェラーの義母に絡んでて登場している。
 ディケンズがその後展開したモチーフとしては、救貧院・身分格差・債務者監獄・拝金主義があるが、この辺りは下巻でも見られそうな感じがする。やはり作家の処女長編には、その後の要素が凝縮されているのだろう。

於于去二月十五日信州水内郡葛山之地、頸壱討捕之条、戦功之至感入候、弥可抽忠信者也、仍如件

弘治三 丁巳

三月十日

晴信(印)

岩下藤三郎との

→甲府市史「武田晴信感状」(甲州古文書)

 去る2月15日に信濃国水内郡葛山の地で首級1を討ち取り、戦功の至りと感じ入りました。いよいよ忠信にぬきんでて下さい。

今十九、於信刕更級郡川中嶋一戦之時、頚壱討捕之条神妙之至感入候、弥可抽忠信事肝要候、仍如件

天文廿四年乙夘

七月十九日

晴信(印)

土橋対馬守との

→甲府市史「武田晴信感状」(甲州古文書)

 今日19日、信濃国更級郡川中島での一戦で、首級1を討ち取ったことは神妙の至りだと感じ入りました。いよいよ忠信にぬきんでることが肝要です。