サム・ウェラーの調子が上がりっ放しになってきた中巻は、その前段階では行き当たりばったりだったストーリーが少し形作られていくような展開。サムのほか、ウィンクルも恋模様を見せ始める。スノッドグラースは上巻で既に恋愛モードに入っているが、ウィンクルは意外だった。その一方で、偽カサノバのタップマンがさっぱり姿を見せなくなりつつある(タップマンはスノッドグラース・ウィンクルより年嵩、ピクウィック氏よりは年下らしい)。
解説の中で、ピクウィック+サム・ウェラー=ドン・キホーテ+サンチョ・パンサの相似形が語られていた。従者としてのサムはサンチョ・パンサを髣髴とさせるので容易に思い浮かぶが、ピクウィックの原型がドン・キホーテにあるという指摘は面白かった。理想主義者でお人好し、しかも世間知らずという設定は確かに似ている。ドストエフスキーがこの流れを作ろうとして『白痴』のムイシュキン公爵を創造したが、自身で及ばないと告白したという。
ディケンズ作品ではお馴染みの裁判シーンが早速出てきていた。ここだけは何とも冗長過ぎる気がする。『荒涼館』ぐらいになると本筋に裁判が組み込まれているので納得できるのだが……。当時の裁判を研究している人には参考になるとは思うが、文学を読むには余りに細かいし、同時代でないと判らない点が多い。
その他、『リトル・ドリット』で頂点を極める陰惨なプロテスタントの教義も、サム・ウェラーの義母に絡んでて登場している。
ディケンズがその後展開したモチーフとしては、救貧院・身分格差・債務者監獄・拝金主義があるが、この辺りは下巻でも見られそうな感じがする。やはり作家の処女長編には、その後の要素が凝縮されているのだろう。