「制札」

 於小仏谷、当手甲乙人等濫妨狼藉之事、

右、至于違犯輩者、可処罪科状、如件、

永禄四年 辛酉

二月晦日

資正(花押)

→上越市史 別編1「太田資正制札」(薬王院所蔵文書)

 禁制。小仏谷において、当方の軍勢関係者が乱暴・狼藉を行なう事。右に違反した者は罪科に処す。

如来意、去秋大嶋越候砌、可遂面談之由存候処、不例故無其儀候、無念候、仍近日氏康為合力関東へ出馬候間、岩付家中弥堅固之異見肝要候、猶飯富源四郎可申候、恐々謹言、

十月廿九日

信玄(花押)

遠山三郎兵衛入道殿

→神奈川県史「武田晴信書状」(塩原加久吉氏所蔵文書)

1562(永禄5)年に比定。

 来意のように、去る秋に大嶋へ行った際、直接お会いするとのことでしたが、病気で叶いませんでした。無念です。近日は氏康に協力して出馬しますので、岩付(岩村?)の家中をますます堅固にするよう意見することが肝要です。さらに飯富源四郎が申し上げます。

 猶々、如蒙仰、例式罷過疎遠候、全心底非無沙汰候、何様自是御礼可申達候、

依毎事取乱、遥不申達候条、内々可及御音信覚悟候処、遮而御懇書、殊料紙如員数被懸御意候、遠来一入秘蔵、辱畏入候、今度当口動事、早速御出馬故、此国過半一変候事、偏御余勢与本望無極候、小田原之議、定可被相抱候、永々御陣労雖奉痛候、此際簡要候間、暫被立御馬、調議被御意術事、所希候、恐々謹言、

三月十五日

景虎(花押)

小山 御陣下

→上越市史 別編1「長尾景虎書状」(小山氏文書乾所収)

1560(永禄3)年に比定。

 毎回取り乱しておりますので、ご連絡が遥かに遅れました。内々でご連絡する覚悟でおりましたところ、それを遮っての親切な書面、特に料紙を員数のようにお気にかけられ、遠来のものとして特別に秘蔵しているとのこと。恥ずかしく恐れ入ります。この度のこちらの前線について、早速ご出馬され、この国の大半は一変すること。ひとえにそちらの勢いだと本望極まりなく思います。小田原のことは、きっとお助けいただけるでしょう。長々と陣中の苦労をかけて痛ましいとはいえ、この機会が肝要ですからすぐに馬を立て、作戦に加わっていただければと願っています。
 追伸。仰せのようにいつも疎遠になってしまいますが、心底で全く無沙汰していたのではありません。色々とこちらよりお礼を申し上げるでしょう。

就向北条左京大夫在所小田原之地及進陣、去廿一、至于榎本被出御馬、早速可有御着陣之由、預御札候、今日廿七披見、兼日之仰合、首尾与云、自他覚本望畏入候、委曲之旨、太田美濃守可申達候条、不能具候、恐々謹言、

三月廿七日

景虎(花押)

那須江殿

→上越市史 別編1「長尾景虎書状」(小山氏文書)

1560(永禄3)年に比定。

 北条左京大夫の在所である小田原に向けて陣を進めるに当たり、去る21日に榎本からご出馬され、早速着陣されるだろうとのこと、書状をいただきました。今日27日に拝見しました。先日おっしゃっていただいたように、首尾といい、自他の覚えは本望で恐れ入ります。詳しいことは太田美濃守からご連絡しますので、詳しくは申しません。

(前欠)

五百六十四人

右、役所之定可為如此候、掟書物、始中終板ニ顕之、厩橋之地ニ定置候間、彼文言聊無相違、厳密ニ可被申付候、仍如件、

甲申

二月十二日

上総入道殿

遠山修理亮殿

木部宮内助殿

小幡左衛門大夫殿

和田左衛門尉殿

高山遠江守殿

堀内丹後守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(堀内久勇氏所蔵文書)

1584(天正12)年に比定。

 564人。右は役所が決めたものであり、このようにせよと掟書きにして板に残らず掲示すること。厩橋の地に定め置いて、この文言にいささかの相違もにないよう、厳密に指示するように。

就今度憲当入国令供奉、此口在陣、依之、常・野両国諸家中、其外出張之儀、度々雖及催促候、遠境故歟、其首尾于今遅々、然者、乍御大儀、彼口へ打御越、各被引立簡要候、上・武之衆、悉被復先忠候、様躰之事、委細御見聞之趣、御伝話専一候、恐々敬白、

十一月廿九日

景虎御居判

龍渓寺

  玉床下

→上杉家御書集成I「長尾景虎書状写」(伊佐早謙氏所蔵三股文書)

1560(永禄3)年に比定。龍渓寺は佐野在。

 この度上杉憲政が入国するお供をすることについて、こちらに在陣。これにより、常陸国・下野国の諸家中その他が出撃するよう度々催促してはいますが、遠距離ということもあってか、その首尾は未だに遅々としています。ということで、お手数ですがあの方面に赴いていただき、各自を促すことが肝要です。上野国と武蔵国の衆はことごとく前の忠義に戻っています。その様子や細かい情報をそれぞれに伝えていただくのに専念して下さい。

当郡三浦之内上宮田于て、竹木切取者有之者、即当津三崎へ可申上候、其方我々被官ニ付而、侘言無余儀間、判形出置候、舟衆へも度々此旨趣申届候間、無躰ニ背此法度、切取輩有之者、急度召連当地可来候、遂其糾明、可処其科者也、仍状如件。

壬申

六月十八日

左衛門大夫(花押)

新左衛門殿

→玉縄北条氏文書集「北条綱成書状」(三浦郡文書)

1560(永禄3)年に比定。

 この三浦郡のうち、上宮田にて竹木を伐採する者があれば、即座にこちらの三崎港に報告して下さい。あなたたちは私の被官であり、陳情も仕方のないことと判形を出しています。舟衆にも度々この趣旨を連絡しています。むやみに法度に背いて伐採する者があれば、取り急ぎ当地へ連行して下さい。事情を糾明して処罰します。

就敵久留里張陣、御越山之儀申入処、早速去月上旬被発進御旗、明間・岩下・沼田之城被攻落、為始北条孫次郎、宗者数百人被討捕、白井・惣社・蓑勾悃望之段風聞、目出度奉存候、時茂年来之願望此時候、然間、関東静謐不可移時日候、弥以被廻計策、急度御落着簡要候、兼亦、去年御上洛之砌、従 公方様裏書御免候哉、奉得其意候、巨細於口上申含候、此由可得御意候、恐々謹言

永禄二ノ状

十月二日

時茂(花押)

越府 人々御中

→神奈川県史「正木時茂書状写」(歴代古案三)

1560(永禄3)年に比定。

 敵が久留里に出撃した際に越山をお願いしたところ、早速先月上旬に旗を進められ、明間・岩下・沼田の城を攻め落とし、北条孫次郎を始めとする主だった者数百人を討ち取りました。白井・惣社・箕輪も懇望しているとの噂で、めでたいことです。時茂年来の願いが叶うのもこの時です。ということで、関東の鎮圧は時間の問題でしょう。更に作戦を練って、取り急ぎ落着させることが肝要です。そしてまた、去る年上洛され、将軍から許諾を得ているとのことですが、その意を承りたいものです。詳細は口頭でお伝えします。このことは御意を得たく思います。

「定条々」

一、来十日陣夫を相集、早速可出馬候、弥支度可被申付事、
一、其方者温気之砌ニ候間、此度者出陣被相止、留守尤候、人数之仕分之様子者、着到之内百人足柄、廿人其方ニ付置、貮百人参陣、可為此分候、然者此仕分悉記交名、来六日可被為見候、於此度者、関東之本意之際ニ候間、大事之動ニ候間、留守・動者共ニ少も無相違、手堅人衆之仕置可被申付候、就中前々被定置候軍法之品々、一色無相違様、是又改而可被申付事、

  已上

右、案所如件、

卯月三日

上総入道殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条家定書写」(武州文書所収都筑郡宝袋寺文書)

年次不明。

 定。一、来る10日に陣夫を集めてすぐに出馬して下さい。念入りに支度を指示すること。一、あなたは健康が優れないので、今回の出陣は取り止めて留守がよいでしょう。部隊編成については、着到のうち100名は足柄、20名はあなた付き。残り200名を参陣するように分けて下さい。その編成名簿は来る6日に見られるようにして下さい。今度のことは関東での本意を遂げられるかの瀬戸際ですから、大切な戦争です。留守の者も出撃する者も共に少しの相違もありません。手堅く部隊編成を指示して下さい。とりわけ以前から決めておいた軍法の品々は1品でも相違がないよう、こちらも改めて指示すること。

「制札」

於相刕鶴岡八幡宮社内、当手軍勢甲乙人等、濫妨狼藉之事、

右、至于違犯之輩者、可被処罪科之状如件、

永禄四年辛酉 三月廿二日

資正(花押)

→鎌倉市史 史料編「太田資正禁制」(鶴岡八幡宮文書)

 制札(禁止条項)。相模国鶴岡八幡宮社内において、当方の軍勢と関係者が乱暴と狼藉を行なうこと。右に違反するものがあれば処罰する。