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北条氏照、上杉輝虎に同盟を持ちかける

重而企使僧候、先日者、雖聊尓千万ニ候、愚存申達候キ、遠境与云、深雪之時分候之条、参着難量間、幾筋茂令申候キ、参着候哉如何、無御心許候、抑如露先書、駿・甲・相親子兄弟同前之間ニ候之処、国競望之一理を以、信玄駿州へ乱入、今川殿苻中敗北、遠州懸川之城江被相移候、自当方以船三百余人加勢被指遣候間、於彼城先堅固ニ候、自信玄当方へ如被申越者、此度之手切、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然候、然間信越之境深雪不及人馬砌、駿州可有仕置候、以此一理、動干戈之由候、然則今般当方有御一味、対信玄累年之可被散積欝事、所仰候、就御同意者、早ゝ御報待入候、行之模様其上可申合候、更御存分難計間、先愚存計令啓候由、可得御意候、恐ゝ謹言、
正月七日
北条源三
氏照(花押)
越苻江

→甲府市史 資料編第1巻 「北条氏照書状」(上杉家文書)

1569(永禄12)年に比定。

 重ねて使い僧を送ります。先日は不躾ながら私の考えを申し上げました。遠距離でもあり、雪の深い季節でもありましたから到着は難しいと考え、何通りにも伝達しています。到着しましでしょうか、心もとなく思います。先の書状で披露したように、駿河・甲斐・相模は親子兄弟も同じ間柄だったのですが、国がほしいというだけの理由で信玄が駿河に乱入し、今川殿は府中で敗北、遠江国掛川の城へ移られました。当方より船で300余人を加勢として派遣していますので、あの城はとりあえず堅固です。信玄より当方へ通達してきたのは「今度の手切れは、年来今川殿が越後と通じて信玄を滅ぼす企みを持っていたことが歴然となったためである。だから信濃国と越後国の国境が雪で覆われ人馬が通れない時期に駿河国を処置するべく、この一理をもって兵を動かした」とのこと。そのような訳で現在当方に与していただき、信玄に対する累年の鬱憤を晴らすべきです。仰せのところ、御同意いただけるなら早々にご連絡をお待ちしております。具体的な内容はその上で話し合いましょう。お考えを更に推し量るのは難しいところですが、先ずは私の考えを申し上げました。ご納得いただけますように。

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