今度為加勢親父式部丞于至遠州出陣候之処、以不慮之仕合、於二保中鉄炮死去、無是非次第候、雖氏政御下知候、当方同陣之上如此之儀、併対信玄忠節之至候、芳情末代不可令忘却候、誠其方悲歎察入候、於信玄愁欝難露紙面候、因茲只今以興禅院申候、仍為香典金襴三巻進之候、恐々謹言、
六月廿一日
信玄(「晴信」朱印)
(宛所欠)
→甲府市史 資料編第1巻 「武田晴信書状」(甲州古文書)
1573(元亀4)年・大藤与七宛に比定。
この度、加勢のため父親の式部丞が遠江国に出陣した際、不慮の合戦があり、二俣において鉄砲に当たって死去しました。是非の次第もありません。氏政の命令とはいえ、当方と同陣の上このようなこととなりました。そして信玄に対する忠節の至でもあります。芳情は末代まで忘却することはありません。本当にあなたの悲歎は察し入ります。信玄の悲しみは紙面に表わし切れません。ということで只今興禅院が申します。香典として金襴三巻を進呈します。
信玄死後に、信玄名義で出された書状ですね。
他家の家臣宛ですから婉曲に信玄存命を宣伝することも意識されていたでしょうか。
コメントありがとうございます[にこっ/]
確かに、同盟国である後北条氏に対して、晴信存命を伝えたかった可能性はありますね。
氏政宛書状と辻褄を合わせるために、大藤氏にも晴信名義で書状を発行したものと思います。
武田氏関連の文書はまだ調べきれていないので晴信死去日は把握できていませんが、通説では1573(元亀4)年4月12日に亡くなっているようです。