房州衆五六百騎ニて、市川ニ陣取、岩付へ兵粮送候、然ニねたん問答ニて、于今指〓(扌+慮)候、此時打而取所由、江戸衆・高城以下数度申越間、明日五日自当地具足ニて、腰兵粮乗馬ニ付、各懸候、然者必ゝ明日昼以前ニ当地へ可打着候、兵粮無調候者、当地ニて可借候、自元三日用意ニ候間、陣夫一人も不召連候、人数馳着次第、馬上ニて鑓を持、必ゝ明日五日昼以前、可打着候、一戦儀定間、中間・小者なり共、達者之者共不残可召連候、土屋・大見衆へ此分堅可申遣候、恐々謹言、

正月四日

氏康(花押)

秩父殿

西原殿

→神奈川県史「北条氏康書状」(西原文書)

1564(永禄7)年に比定。

 房州衆が5~600騎で市川に駐屯し、岩槻へ兵糧を送ろうとしています。ところが価格交渉で問答があり、現在協議中です。この時に出撃して撃破すべきだと、江戸衆と高城氏が数回連絡してきましたので、明日5日に当地より、具足・腰兵糧と乗馬でそれぞれ出撃します。ですから絶対に明日の昼以前には当地に到着して下さい。兵糧がない者は当地にて貸し出します。元より3日予定ですから、陣夫は不要です。人数が馳せ着き次第、馬上で槍を持ち、絶対に明日5日の昼以前に到着して下さい。戦闘は必至ですから、中間・小者であっても健康な者は残らず召集して下さい。土屋・大見衆へもこのことは堅く申し送りして下さい。

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